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2019/1/16 寛容であることの痛み

この日は彼と休みを合わせて1日デート。美術館に行って、美味しいランチを食べて、映画をみて、バーに行って、そんな理想的な日を過ごした。上野から水道橋、そして渋谷と東京をあちこちまわって思うに、やっぱり私は東京が好き。そして彼と回る東京は本当に楽しい。

そんな楽しい1日だったのだけど、唯一今でも消化できないことがある。それはルーベンス展でみた「ローマの慈愛」という絵。捕らえられ、痩せ細った年老いた父が、娘の乳房から乳を吸う。なんでも当時の「感動的な話」ということで広く知られた話で、ルーベンス以外の画家も何人もこのモチーフで作品を残しているのだそう。ぱっと見て非常に不愉快。解説を読んでも、私はその気持ちが収まらなかった。

以前バルテュスの「夢見るテリーズ」という作品が児童ポルノにあたるのではという議論があった。私はバルテュスはともかく、そこでムンクの「思春期」についても噛み付いている人には違和感しかなかった。そんなことを言っていたら、展示できる絵なんてずいぶん減ってしまう、というのがその時の私の見解。

つまりルーベンスの「ローマの慈愛」を私が不愉快に思ったからといって、それを飾るなというのはおかしな話なのだ。

Twitterで、検索をかけると、「ローマの慈愛」をいい意味で印象に残ったという人を何人もみた。そう、それを飾るなというのはおかしな話なのだ。

それを飾るなというのはおかしな話。それはよく分かっている。そして寛容である、というのは時に痛みを伴うものだということも。

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