ワシントン・アーヴィング「スケッチブック」(1820)/後悔しないためにできること
夫が3日間高熱を出した。
2晩目にいたっては熱が下がらないどころか41度を記録。ワクチン2回摂取済、パルスオキシメーターの値は98で正常、味覚に異常なし。喉が猛烈に痛いと言っていることから咽頭炎だとは思っても、41度の数字をみてからはたまらずファストドクターに往診を頼んだ。
診断はみたてどおり、咽頭炎。ただ抗生剤が効かない場合は入院して喉を切開して膿を出さないと深刻な状態になると聞き、原因がわかってほっとする反面、深刻な状態になったらどうしようという気持ちはぬぐえず、その日の晩は彼の呼吸が正常かどうかを何度も確認し、私の眠りは浅かった。翌日の午後、彼の熱が下がってホッとしたら、はりつめた気持ちかどっと解けてひどい倦怠感に。まだその疲れをひきずっている。
心配性だ、と彼は笑っていたけれど、私の場合は後悔したくないのだ。誰かの死に対して悔いを持つことを異様に警戒している。というのも、何かできることがあったのでは、という思いは、下手すれば一生消えないことを、私は本を通じて何度も目にしては、その気持ちの重さに愕然としたからだ。
最近なにかと縁がある村上春樹は30歳から今にいたるまで、親しい人の死に対して、残された人のひっかかりを書いている。先週みた村上春樹原作の「ドライブ•マイ•カー」も、母親の死に対して責任を感じるみさきと妻の死に対して責任を感じる家福の傷の深さと、そこから立ち直るまでの物語だった。立ち直る、といっても、ふたりが自分たちに言い聞かせたのは、その思いを抱えたまま生きていかねばならない、ということなのだけども。
私には自死した友人がいる。その友人の死に対しては我ながら見事なまでに消化していて、だからできれば今後誰の死に触れるとしても、同じくらいさっぱりと、その生を見送りたいと強く願う。
ただ現実はどうもそうではないようだ。もしあの晩彼に何かあったなら、日中に病院に行ってもらうよう懇願しなかったことを、後悔したと思う。そして村上春樹が指し示すように、何年経っても傷がうずき、その傷を受け入れて生きる、と覚悟を決めるしかないんだろう、そんな予感がした。
ちょうど今読んでいるウィリアム・アーヴィングの「スケッチブック」にもこんな一節があった。
願わくばそんな日が来ませんようにと願いながら、すっかり熱が下がって元気そうな彼をみて心底ホッとする。