〇〇のためにいきるのって、カッコイイんじゃない?
先日『しょうらいのおしごとについてかんがえる。〜ちーさん @igaiga115 のnoteを読んで〜』という記事を書きました。この記事の中でわたしは「自分のために生きることが大切」と書いたのですが、どうしても腑に落ちませんでした。
というのも「自分のために生きる」の反対語として「他者のために生きる」を挙げ、わたしは他者のために生きていると書いたのですが、そもそもこの部分が、ちょっと違うなと思ったのです。
わたしは誰彼かまわず「他者のため」に行動しているのではない。
ということに気がついたのです。
では、一体わたしの行動原理となっている“他者”とは誰なのか。
それは
愛する人「家族」です。
わたしの過去の行動原理の全ては「家族」のためでした。(もしくはこれから「家族」になるかもしれない人。つまり恋人。)
でも生まれたときから形成されている「家族」は、自分で選んだのではありません。元々与えられた家族。自分では選べない家族。
もちろん両親や弟のことは大好きですが、「自分で選んでいない他者に振り回される・囚われる」のは「本当の幸せ」ではないと思うんです。だから、今までのわたしは他者の幸せが自分の幸せにつながる性分にも関わらず、なんだかモヤモヤを抱えたまま生きてきたのだと思います。
となると、わたしが、自分で選んで家族になった
「夫」こそが、
わたしの行動原理となりうる「他者」だという結論に至りました。
言いかえると、
「夫が幸せだと、わたしも幸せ。」
「比翼の鳥」という伝説上の鳥がいます。
この鳥は、オスとメスがそれぞれ一つの眼と一つの翼しか持っていないので、ニ羽が常にピッタリくっついて飛ばなければ生きていけません。そこから、夫婦の仲がよいことに例えられています。
わたしにとって夫は、もう他者ではないのです。
比翼の鳥と同じで、夫がいるから生きていける。わたしの半身。わたしそのものなのです。
なので、少しややこしいのですが、
「夫の幸せのために生きる」=「自分の幸せのために生きる」
ということに結びつくと思うのです。
特に、今まで「他者の幸せのために」生きてきた人にとって、急に「自分の幸せのために」生きることは、かなり難しい。だってそれ以外の生き方を知らないから。朝、目が覚めて、今日から自分のために生きよう!なんて思えたとしても行動できない。知らないから分からない。経験したことがないからどうやって知ればいいのか分からないのです。
その点、自分に最も近い、自分の半身である夫のために生きることは、そう難しくない。親が我が子のために命をかけられるのもきっと同じ。親にとって自分の子どもは、自分で選んで創造した自分の半身だからでしょう。
そこで、思いきって夫に「夫が望むわたし」を質問してみました。
すると答えは
「笑顔」
だったのです。
深いなと感動しつつ、一応具体的にどうしたらよいかも質問してみました。その答えがこちら⬇︎
・無理をしない
・わたしが好きなこと・楽しいことをする
・夫も頑張る
みなさん、当たり前って思いましたか?
でもね、わたし、これらが全然できていなかったんです。
・無理をしない→いつも頑張りすぎて疲れている
・わたしが好きなこと・楽しいことをする→他者に合わせがち
・夫も頑張る→自分でなんとかしなきゃと考えがち。頼るの下手。甘え下手。
「夫のため」だったら、上記のことも改善できる気がします。
夫が望む、「笑顔のわたし」になるために、わたしはこれから生きていきます。
「夫」「家族」のために生きるのって、
カッコイイんじゃない?
※この記事を書くにあたり、背中を押してくれたのはまゆさんのこちらのツイートでした。ありがとうございました。
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牧 真姫子🍙エッセイスト(@makicome1986)