『1+1=2で暮らす』
はじめに
どんなに複雑な式を使っても至極単純な式を使っても、出る答えが同じなら、単純な式を選んでみたい。
2024年の暮れも差し迫った日曜日。毎年恒例のご近所さんとの忘年会でお隣合わせたMさんご夫妻と話し込んでいた。
「来年はどんな年にしたい?」と聞かれて「とにかくもっとシンプルにしたいです」と前のめり気味に答えた。
昨年は仕事でもプライベートでも、自分の器以上のものを抱えてしまい、暮らしの中で手放しで「たのしい」と感じられる場面がとても少ない時間を過ごしていた気がする。
自分で仕事を立ち上げて組織に所属せずにやってきたせいか、どんな時でも「断る」ということが苦手らしい。
せっかくに声をかけてくれたのだから、と自分の状況よりも感謝が先に立ってしまう。
きっとお困りなのでしょうから、と自分の気持ちよりも先に相手の状況に共感した気になってしまう。
そしてちょっと難しいスケジュールでも条件でも、なんとか都合をして引き受けてしまう。
プライベートも似たようなところがあって、誘ってくださった気持ちが嬉しいやら有難いやら。そうして万難を廃して、というより万難と一緒くたでも一生懸命に出かけてしまう。
これまではそういうちょっとした無理は背伸びの機会であった。いつでも自分を成長させてくれる種であり、栄養であり、雨であった。
その先にある収穫が見える気がして、進んで難しそうな方を選んで、難しそうな状況にこそ前向きだったと思う。
そんなこれまでのやり方から得られるものが以前よりも少なくなって来ていることを感じることが増えた。
ちょっとした無理の積み重ねの、その先にあるものって一体なんだろうと考えると答えが見つからない気持ちになった。
そう考えていた矢先のMさんとの年末の邂逅であった。
「シンプルになること」と答えて、それが私がこれから見つけたい答えのヒントになるのかもと思った。
私以上にご多忙を極めるMさんご夫妻と、今年も激務でしたよねと首をぶんぶん縦に振りながら、なんでこんなに複雑になっちゃうんでしょう。本当にマイナスとかルートとかよく分からない長い長い複雑な式で計算するのが好きですよね私たち、と。自分を追い込みすぎてしまう働き方や暮らし方に自戒を込めて話していた。
「1+1くらいでいいですよね」と誰からともなく出たフレーズに、私の中の何かが小さく「あ」と声を上げた。
忘年会の翌朝。起き抜けにコーヒーが飲みたいなと思った。
コーヒーの香りを想像してうずうずと嬉しくなる。
けれども、骨の髄まで疲れがみなぎって、Uberで頼んじゃおうかな。
しかし、流石にコーヒー一杯を届けてもらうのは贅沢が極む。
そして届いたコーヒーはきっと冷めている。
スタバかコメダでも行こうかな。
となると着替え。
てかその前にお風呂。
たった一杯、温かいコーヒーが飲みたいだけなのに。
複雑すぎる。
「あ」再び私の中の何かが小さく声を上げた。その声は昨晩よりほんの少し大きかった。
お気に入りのコーヒー豆も、おいしいお水も、デザインの好きなやかんも、相棒のマグカップもそこにあるのに。
コーヒーを淹れる元気だけがない。
「あ」。
一昨年、ライター/エッセイストの大平一枝さんの文章講座を受講した。
その中で大平さんは繰り返し「何のために書くのかが大切」とおっしゃった。
私という習慣と忘却で出来た塊は、日々を地続きの「何となく」の中に隠して日常と呼ぶ。
そんな日常を少しずつ今の、これからの自分にとって心地よい方向に進む様にできたらいい。
これまでのやり方をほんの少し振り返って、今、や、これからにしっくりくるような方向を選びたい。
言葉にして記録をして、時々丁寧に眺めてみたい。
それがどこに繋がっていくのかを見つめたい。
年を重ねて最近つくづく私は私と生きて行くんだな、と思う。
私は私のために書くのだと思う。
隔週金曜日、夜20時にお届けします。
おつき合いいただけたらとても嬉しいです。
2025.02.14