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1章: 優等生の誕生とその影 3.「進学校の現実:比較と焦りの日々」

高校進学は、私にとって新しい挑戦の幕開けでした。中学時代は、特に努力をしなくても自然と良い成績が取れ、安定した「優等生」という立ち位置で過ごしていました。しかし、進学校に入学すると、周りは自分と同じように「優等生」としての経歴を持つ生徒ばかり。初めて私は、自分が特別ではないことに気づかされました。

この学校には、中学時代に「できない自分」を経験したことのない生徒が集まっていました。そいて妙な自意識、プライドが渦巻いていました。例えば、授業内容がわからなくても質問する人はほとんどいません。なぜなら、質問するということは「自分はわかっていない」と認めることになり、それが恥ずかしいと感じる空気があったからです。私自身も、その空気に飲まれ、わからないことがあっても質問することはできませんでした。

そんな中で、私は必死にテストの点数をキープすることにエネルギーを注いでいました。授業内容を理解することよりも、いかに点数を取るか、それが私の勉強の目的になっていました。成績は「自分の価値」を示すもののように感じられ、点数が取れないことはまるで自分の存在価値を否定されるかのような恐怖を覚えました。

「勉強すること」と「学ぶこと」の違いを意識し始めたのもこの時期かもしれません。私は確かに勉強をしていましたが、それは何かを理解し身につけるためではありませんでした。単にテストの点を取るための作業でした。その勉強に意味を見いだせない一方で、大学進学のためには避けられない現実でした。

高校生活を楽しみたいという思いもありました。文化祭や部活動、新しい友達との日々には憧れも感じていました。でも、その一方で、現実的には「高校は大学進学のための通り道」に過ぎないようにも思えました。そして、「浪人するのは恥ずかしい」という社会的な価値観が頭の片隅にあり、何とか現役で大学に合格しなければというプレッシャーに押しつぶされそうでした。

その結果、私の高校生活は、楽しさと不安、期待と失望が交錯する「ぐちゃぐちゃな混乱」の時期となりました。勉強を頑張っても追いつかない焦り、点数を取るためだけの作業、そして高校生活そのものに対する疑問。気持ちが落ち着くことはなく、ただ日々を必死に乗り越えることに精一杯でした。

今振り返ると、この時期の私は、学ぶことの本質、今を生きることの大切さを見失っていたのだと思います。高校生活を楽しみたいという思いと、一気に教科が増えたことでキャパオーバーに陥った現実の狭間で、どうやって勉強と他のこととのバランスを取ればいいのか、さっぱりわからなくなっていました。

周りには、勉強も部活も両立し、さらに友達付き合いまで器用にこなしているように見える人がたくさんいました。私はそんな人たちと自分を比べ、「どうして自分はできないのだろう」と感じるばかりでした。一方で、必死に努力しても追いつけない現実に直面し、もう何をすればいいのか本当に混乱していました。

その混乱の中で、私はただ目の前のタスクをこなすことに精一杯で、心の余裕は全くありませんでした。そして、その結果、学ぶことの本質からさらに遠ざかっていったように思います。私は高校生時代から人生やり直したいなと思うことがよくあります。その理由はこのあたりにあるのかもしれません。振り返れば長い長いモヤモヤ期の始まりがまさにこの高校時代でした。もちろん当時の私は気づいていませんが。

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