あれから40年。マキ、ピアノに出会う。
この物語は、マキの人生のほんの一幕です。
ピアノに憧れていたけれど、ピアノを習うことは叶わなかった。少女の頃に抱いていたかすかな悲しみや痛み、悔しさ。
そう、ピアノに恋焦がれること40年。
2021年6月。
とうとうマキは、ピアノに出会うのです。
ピアノに憧れ続けた少女マキのちょっぴり切なくて悔しい気持ちを、40年を経てピアノに出会った大人のマキがよしよしって抱きしめるような、小さな小さな物語を語らせてください。
少女マキのピアノへの憧れ
初めての憧れ、4歳のマキとピアノ
マキがピアノというものを認識したのは、幼稚園のとき。
大好きな幼稚園の先生が、毎日弾いてくれたピアノ。
マキは歌うことも好きだったけど、先生が弾くピアノが大好きだった。
お友達がひとり、またひとりとピアノを習い始めていることを知ったマキは両親に懇願した。
「マキ、ピアノを習いたい!」
しかし両親は
「ピアノなんて、金持ちの習いごとだ」
「うちにはピアノを買うお金なんてありません」
「狭い社宅のどこに置くの?」
と、全く相手にしてくれなかった。
そして、身体が弱かったマキを体操教室に通わせた。体操が嫌いなわけじゃなかったけど…マキが習いたかったのはピアノだった。
8歳ごろのマキ、おとなりのゆみちゃんが
小学生の頃、マキは父の会社の社宅に住んでいた。
マキの隣の家には同じ歳のゆみちゃんという友達が住んでいて、ゆみちゃんはピアノを習っていた。
マキの家のリビングとゆみちゃんのピアノは壁一枚の位置づけだったため、ゆみちゃんが練習するピアノをいつも聴いていた。
マキは、バイエルの練習曲やブルグミュラーの練習曲を
ゆみちゃんのピアノでたくさん知った。
毎朝、一緒に登校していたので、
「ねえ、いま弾いている曲はなんていう曲?」といつも尋ねていた
「アラベスク」も「エリーゼのために」も
それから「乙女の祈り」も、全部ゆみちゃんの演奏で覚えた。
時々、ゆみちゃんのピアノレッスンについていくこともあった。
ゆみちゃんのピアノの先生は、一緒にお部屋にはいることをゆるしてくれたので、ずうずうしく、同席させてもらっていた。
ソルフェージュをするゆみちゃんを「神わざ!」と尊敬し、ピアノのレッスンたるものがどんなものなのか、どんな宿題がでて、毎日30分はぜったい弾かなきゃだめなことなんかもぜんぶ教えてもらった。
折りを見て、両親には相変わらず
「ピアノを習いたい」と懇願した。
スイミングも、お習字も習わせてもらえたのに、なぜかピアノだけは許してもらえなかった。
10歳ごろのマキ、音楽室の机はオルガン
習いごととして許してもらえなかったけれど、とにかく鍵盤を弾きたいマキは、音楽の授業があるときは早く行って、休み時間にオルガンを弾いていた。
ピアノを習っている友達はたくさんいたので、マキにも弾ける曲を教えてもらっていた。
初めて両手で弾けるようになったのは、
「ねこふんじゃった♪」
それから、音楽の授業で習った
「川は呼んでいる♪」
ミドミドミドレ レミファレミドレという右手の旋律に、左手はドミソドミソ・・・って弾くんだよと教わって必死に両手で弾いていた。
あとはゆみちゃんが練習している曲の旋律を、耳コピで弾く。アラベスクは、ラシドシラ ラシドレミかな?とか。
オルガンでも、嬉しかった。とにかく、鍵盤を触りたかった。ピアノが、弾きたかった。
12歳のマキと、「さらばピアノよ♪」
この曲は、わたしが覚えているゆみちゃんの練習曲の最後の曲だ。
大人になった今も、この曲を聴くと胸が締め付けられるような気持ちで切なくて涙が出てきてしまう。
それはこの曲が、ゆみちゃんやそのときの友達たちとの別れの曲になってしまったからなのかも知れない。
ゆみちゃんがこの曲を弾いていたのは、小学校6年生の冬ごろ。私たちは同じ中学校に進学予定で、中学校の入学説明会も終えて、希望に胸をふくらませていた。
ある日、小学校から帰ったわたしに、母が言った。「マキ、お父さんが転勤になった。春から鎌倉の学校に通うよ。」と。小学校卒業のタイミングで引っ越すことが、急に決まってしまったのだ。
仲良しの友達との別れ。転校は初めてではなかったけれど、淋しくて心細くて、
いっぱい泣いた。
そのころ泣いている私がきいていたのが、ゆみちゃんのピアノ、「さらばピアノよ♪」だ。
何度聴いても、切ない曲だなあ…そして、マキのピアノへの想いはここで一旦途切れることになる。
だって、引っ越し先の鎌倉の社宅のリビングでは、もうゆみちゃんのピアノの音を聴くことはできなかったのだから。
青年期のマキ、ピアノにニアミス
22歳のマキ、バイエルと挫折
大学を出たマキは、とあるきっかけから小学校で先生をすることになった。しかし、教員免許は中高のものしかなかったので働きながら通信制の大学に通って小学校教諭の免許の取得を目指していた。
大学の夏季スクーリングには、同期でやはり小学校教諭免許の取得を目指していた音楽の先生と通っていて。彼女が課外活動として礼拝堂で行われている「合唱指導」なるものに参加しない?とわたしを誘った。
その活動は、何と学生だけでなく大学の先生たちもいらしていて。毎日夕方から、礼拝堂でたくさんの曲を歌った。いま思うとすごい先生たちだったなあ、と。
小宮路敏先生は「歩いてゆこう」、「もしもこっくさんだったなら」、「毛虫が3匹」などを作られた方だし、千葉佑先生、朝日先生など、音楽教育の玉川を作られた方々から、たくさんの心を動かされるエッセンスをいただく。
そのなかで当時、いちばんの若手だった長嶋享先生。合唱指導では主に伴奏をしていらしたのだけれど、「20歳からピアノを始めたんだよ」とおっしゃって。
そのときわたしは22歳。長嶋先生が「君にもピアノできるよ」っておっしゃってくださったので、バイエルを購入。独学で放課後に音楽室のピアノを借りて練習を始めた。
…しかし、一冊弾き終わる前に挫折。
独学だったこと、仕事が多忙すぎたこと、そして、練習教本という組み合わせが、おそらく喜びよりも負担感を大きくしたのかも。
またまた、ピアノへの想いは途切れ、このことでますますピアノを弾けない自分への悲しさが増してしまったかもしれない。ピアノを弾けないことは、わたしのコンプレックスになっていた。
29歳のマキ、ピアノの先生なママ友に出会う
長男が生まれて、マキはママになった。
ママ友にも恵まれて、かわいい長男との忙しくも楽しい毎日を送っていた頃、ママ友のママ友、というつながりでピアノの先生なママ友に出会った。
マキが以前、英語を教えていたとある教室で、そのママ友はピアノを教えていたとか!意気投合したわたしたちは、子どもを交えて交流を続けた。
「ピアノ弾けないんだけど、いつか弾いてみたいんだよね。」というマキに、「いつでもレッスン始められるよ!」と声をかけてくれた。
でも、楽譜も読めないし。そんなこと、無理なんだろうなとどこかであきらめていたマキだった。
家を建てた時、いつか子どもたちがピアノを習いたい、っていうかもしれないと床にピアノ補強を施したりもしたのだが、息子たちは一切ピアノに興味を持たないまま、すくすくと育っていった。
四十路のマキ、とうとうピアノに出会う
時は令和。マキは四十路になっていた。
昭和50年代。
少女マキは、多くのおともだちがそうしていたように、ピアノを習いたくてたまらなかった。でもその夢は、簡単には叶わなかった。
しかし時は流れ…。
少女マキは大人になって、ママになり。マキの息子たちは大きくなり。ようやく子育てが終わるころ、マキの夢は、突如として手の届くところにやってきた。
年号は昭和から平成を経て令和に変わっていた。
四十路のマキ、とうとうピアノに出会う
四十路のとある日、ピアノの先生なママ友の家で、いつものようにお茶を飲んでいた。
ピアノの先生なママ友
「マキ、「やさしさに包まれたなら」の楽譜あるよ〜。弾きたいっていってなかったっけ」
マキ
「いや、言ってたけど。楽譜読めないし…」
と、いつも通りの返答。
しかし、ピアノの先生なママ友、主旋律だけポロポロって弾いて、おいで〜とピアノの前にわたしを誘う。楽譜読めなくても弾けるよ〜って。
最近、思うのだけれど、わたしはたぶん、ピアノの「音」が好きなのだ。不思議とエレクトーンやオルガンに興味はなくて、どうしてかピアノの音が好き。
このひとときが幸せすぎて、忘れていたピアノへの想いが一気によみがえってきた。
そして、奇跡が起こる
とはいえ、家にピアノはない。
しかし、時代は令和。ピアノはないが、iPadはある。ピアノの鍵盤のアプリを見つけたので、それで弾いてみたりして。
もう楽しくて楽しくて。iPadピアノの楽しさをSNSに投稿したりした。
するとこの投稿をみた友人から連絡が。「電子ピアノ、使ってくれない?」と…。あまりのタイミングに、にわかに信じられなかったが、数日後には友人から電子ピアノを譲り受けることに…。
ピアノの神さまが、マキのピアノへの想いを見ててくれたのかな〜。本当に奇跡のようなできごとだった。
マキ、舞台に立つ
それから2年。
3曲目を「瑠璃色の地球」にしようと決めた頃、ピアノの先生なママ友が言った。「今度、発表会あるから出ようよ」と。
いやいやいやいや、とてもそんなレベルにない。というか、ちびっこたちだからかわいいんでしょ、つたなくても。
とかいろいろ抵抗したのだけれど、気づいたら出ることになっていた。
発表会で学ぶ、自分の音を肯定する気持ち
発表会には、元同僚の音楽の先生が来てくれた。
小さな子どもたちに混じって、小さな子どもたちに遠く及ばないレベルの演奏をするわたしを、忙しい毎日のなか大切な時間を割いて駆けつけてくれた彼女。
何だか申し訳なく、気後れして、直前の1週間あたりは何度も「なぜ発表会の話を彼女にしてしまったんだ!」とまで思い詰めたりもしたが、今思うと、これも全て学び。
そして、彼女からいただいたのは素敵なお花とこのことば。
「マキさんのピアノね、音が素敵。技術とかじゃないんだよ。あれは、ピアノを愛してる人の音色だもん。」
…泣きました💧
自分の演奏をそんな風にとらえてくれた彼女のことばに本当に泣いた。自分の演奏はつたないけれど、自分の音には愛がある、と初めて思わせてもらった日。
発表会での演奏は、自分の音を肯定する気持ちを知る貴重な機会だった。
今日も、ピアノが楽しくて仕方ない
発表会は終わった。
終わったけど、わたしの『瑠璃色の地球』は終わらないらしい。
ピアノの先生なママ友
「マキ、発表会前は余裕なくて、って避けてたけど、ここのとこもペダル入れられると思うんだよね。」
マキ
「先生〜。発表会が終わっても、練習は続くんだね笑」
ピアノの先生なママ友
「あはは。 だって、もっとマキの演奏よくなると思うんだもん。」
ということで、まだまだ弾いています、『瑠璃色の地球』。
今日もここに「P(ペダル)」の文字が加わった。
初級者なわたしには、ペダルを加えるのは大仕事。それまで弾けていた右手と左手が崩壊します…笑。 でも、それもまた楽しいのだ。
マキのピアノ道は、まだまだ始まったばかり。
でも、今からずっとピアノを弾き続けたらさ、70歳になるころには「ピアノ歴20年です」ってことになるんだよね。
その頃、どんな曲が弾ける自分になっているのかが、楽しみで仕方ない。
そしてその道は、「ピアノが弾けるようになりたい」ってずーっと思い続けてきた小さな頃の自分を、優しく癒してあげる時間でもあるのかな。
今、ピアノが最高に楽しいのは、そんな癒しの時間だからなのかもしれないな。
大人の学び直しってよく聞くけど、その一人ひとりの学びのなかにはきっとマキの物語みたいなストーリーが隠れているに違いない。ね、そうだよね。