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遊びゴコロのある教室〜学びの主導権を生徒に渡す

先日、理事をしているオーガニックラーニングの講座「遊びゴコロのある教室」にて、期待の若き新鋭とペアで登壇。(以下、「新鋭さん」とお呼びします)

題材はとあるTED talksの動画。これは新鋭さんに出会った頃、とあるスタバで教えてもらった実践で、面白すぎて大学でアレンジしてレポート課題にしているもの。

同じ題材を同じように導入したのですが、今回の登壇に向けて新鋭さんと準備する中で、お互いがフォーカスしてることがちょっと違うことに気づいたり、学び多き日々となりました。

KEYになるのは、まず「余白」

新鋭さんは高校の英語の先生。とあるTED talksの動画をもとにあることを学生に課し、それをスピーチとして発表させるという実践をされました。

この学生に課した「あること」の設定が秀逸。アウトプットは「英語」だけどその内容は「自由」なのです。ひとことで言えば「入り口自由、出口英語」。

ここが肝だな、とスタバで話を伺った時に直感で感じました。ここに新鋭さんのいう「余白」があるのです。彼らには与えているようで全て与えていない。自分で選ぶ選択の自由が与えられているのです、余白として。

新鋭さんのマネジメントには、彼女の(課題課題部活部活で忙しい)生徒への愛があふれているのです〜。このセンスに脱帽よ、ほんとに。

次に、「自己認識」

次に、その「あること」を通して、自分を知る機会を得ます。とことん向き合うもよし、向き合えない自分に気づくのもよし。アウトプットが前提とされているので、多かれ少なかれ、「自己認識」の機会がある。これもKEYですね。

わたしはそこに、「相手意識」を加えたい。

わたしは大学の教員なので、大学生には「レポート」の形でアウトプットを課しました。スピーチの形を踏襲しなかったのは、担当している学生にはスピーチよりもレポートが適している、と判断したからです。

スピーチに慣れていないことや、クラスメートのスピーチを聞いて理解することが彼らの学びとしてどうかなあ、と。(結局はレポートをPadletで閲覧しあってコメントし合う形の実践になった)

また、大学では論文を書くので、その前段階として結果と考察を含んだレポートを書けるようになってほしい。そして、英語で論文を書く学生は少ないかもしれないけれど、英語で論文を「読む」機会はかなり多いと思われる学部であるため、論文につながる構成でレポートを書くことは、「読む」ことにもつながると考えたからです。

論文に一定の構成がある理由のひとつには、読み手への配慮があると考えています。(少なくとも私は、そう考えて取り組んでいます。)大学院のころに、「そういうことはブログに書いておけばいいのよ!これは研究なのです。あなたの日記を読んでいるのではない!」と厳しく鍛えていただいたことが、この意識の根底にあります。

「学びの主導権を生徒に渡す」

新鋭さんとわたしで、グループディスカッションを1本ずつ入れました。それらに対する参加者の方々の創造性あふれるアイデアがすごい!学びしかない!

わたしパートのディスカッションは、わたしの実践をもとに「生徒にどんなメール課題を設定するか」がテーマだったのですが、もう面白いアイデアがありすぎて降参状態です。

そしてそして、参加者の方々から出てきたことばがこちら。
学びの主導権を生徒(学生)に渡す。

そう!(若者風に言うと)それな!
この実践でわたしがやりたかったことはこれだ!と改めて気づかされました。

実は、参加者の方々のことばに自分が言語化できていなかった想いがあらわれることって、今回が初めてじゃないんです。これぞ、「学び合い」だなあ、と。

学び合い

自分の発表パートには反省しかないのですが、いつも参加者のみなさんが彩り豊かな時間にしてくださる!そういえば、わたしの授業も、学生一人ひとりの個性があって完成されているように思う。

授業して、登壇して、実は一番学んでいるのは自分。アウトプットの機会をいただくといつもそう思います。そして、それは学生たちにも言えることだなあ、と。だからアウトプットは必然なのだと思うのです。

オーガニックラーニングの講座は、「学び合い」という言葉がぴったり。参加してくださったみなさま、そして若き新鋭さん。素敵な時間をご一緒させていただき、ありがとうございました。最高に楽しい時間でした!


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