読むとはどういうことか ②
#note100本ノック
Day 35
大学の後期授業を終え、全力出し切って抜け殻みたいになったため、ここ数回は実践の振り返りをおやすみしています笑
今回は「読むということ」について、2つの読書会を比較することで見えたことを書いてみます。
読書会
いくつかの読書会に参加しています。
高校時代の同級生+そのクラスの担任の先生で読む文学の読書会もあれば、先生たちと読む教育書の読書会もあります。
文学と教育書って全く異なる分野なのですが、どちらも自分に向き合う過程みたいな気がしています。わたしのなかでは、文学は自分自身と、教育書は先生としての自分と向き合うというイメージかなあ。
文学の読書会
なんとなく「自分の魂を磨く」みたいなイメージ笑
というと高尚な感じするかもしれませんが、お茶飲みながら、ランチしながら、文学を読んで感想を伝えあっているが基本なのですけれど。
心地よいなあ、と感じることもあれば、自分に向き合うことが苦しいなあ、と感じることもあります。
自分で読んだ時点で、登場人物にシンクロし過ぎてキツイということが起きたことがあり、そのときは読書会でみんなに話すことで癒されていく感覚を味わったりもしました。
『流浪の月』がテーマの時、更紗という主人公にシンクロしてしまったわたしなのですが、みんなはシンクロしないってことがわかりびっくりしました笑
凪良ゆう(2019)『流浪の月』東京創元社
ひとりで読んでたら気づけないことに気づくことが読書会の醍醐味ですね。解釈は読み手の自由、という大好きなことばが頭に浮かびます。
なので、わたしのなかの文学を読むということは、苦しさを伴いながらも癒しを求めていく過程な気がしています。
教育書の読書会
一方教育書の読書会は、文学とは対照的なイメージです。脳のなかで使っている部分が違うのでは?と思うくらい、同じ読書なのに違うものみたいに感じます。
自分と向き合うというよりは、自分の置かれている教育という環境のなかで、広く事象をとらえながら読むという感じ。そして求められていることは「クリティカルに読む」のひとことです。
ここ数年、教育書の翻訳で知られている吉田新一郎さんのブッククラブ(読書会)にお声がけいただき、何冊かご一緒に読ませていただいています。アメリカの教育書を読みます、この本とか↓。
Erika Christakis(2016)The importance of Being Little . Viking
本文の内容をとらえたら、教員としての自分の実践やとりまく環境に転移して考え、さらに新たな価値観や概念を創出していけるかをブッククラブのやりとりのなかで見出すことを模索する感じで読みます。
クリティカルな思考を磨く
吉田さんは「先生たち、クリティカルな思考を磨く練習が足りないのではないか?」とよくおっしゃいます。でも先生たち、ほんとに時間ないんですよ…。
一方わたしは、いま非常勤講師なので…。そして学生には、クリティカルな視点を迫ってる。だから、自分は練習せなあかんって思っています。
鍛錬の日々!
磨くぞ、クリティカルな思考!
この鍛錬、けっこうしんどいのですが、自分へのエールにかえて。
あれれ…そういえば。わたしは大学では文学を、大学院では教育学を専攻していました。自分の人生の軸は、はやりこの2つなのかも?…この記事を書いて得た気づきでした。
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