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へんてこな小学生が、お習字の塾でペンの会を発足させたおはなし

わたしは小さい頃から書道が大好きで、幼稚園の頃からお稽古に通っていた。引越し等々でずっと同じ先生に習っていたわけではなかったのだが、今でも覚えているのは、小学校の5年生からお世話になったとある先生のお話だ。

どんな教室だったのか

その書道教室はうちから自転車で10分ほどのとあるお宅だった。通算3つめの書道教室だったので、私はこどもながらに、それまでの教室といろいろな比較をしていた。でもその先生がいちばん好きだな、と思っていた。なぜなら、先生は子どもたちそれぞれの良さを尊重してくれる方、と感じていたからだ。

私はすでに「私らしい字」というものを感じていて、先生はその良さを評価しながら、いろいろ教えてくださるような方だった。だから、私は自分らしさを存分に生かす字が書けていた気がする。

納得できるまでつき合ってくれる先生

その書道教室に通う前、4年生のときだったか。クラスの代表として書道の作品を展覧会に出すことになった。でも、担任の先生が〆切を忘れていたとかで、急に掃除の時間に教卓に呼ばれて、『平和』と毛筆で書くように言われた。掃除の時間ってたかだか20分くらいで、当たり前の話だが、納得いくような字は書けなかった。担任は「いやー上手だね。これで十分だよ。」と私が全く納得のいっていないその作品を清書として持っていってしまった。

小学生ながらに、モヤモヤした。納得いかない、ということを受け入れるのが、苦手な子どもだったんだと思う。だから、いまだに覚えている。笑 どこかの会場に飾られた『平和』を観に行ったのだが、なんだか悔しくてたまらなかった。私はもっといい字が書ける、と。小学生にだって、プライドみたいなものは存在するのだ。

そして、6年生のとき。私は再度、クラス代表として出品するチャンスをいただいた。今回は絶対に納得のいく作品を出したい。わたしは学校で書くのではなく自分で書いてくていいか、と担任に交渉した。そして書道の先生に、殊の顛末を話し、絶対に納得のいく作品を書きたい、と指導をお願いした。

その週のお稽古が終わった後、展覧会の作品を書くことになった。もう夜になろうとしていて、先生の奥さまが、「お腹すいたでしょう」と豚汁を持ってきてくださった。空腹は感じていなかったけれど、ひと口いただくと、なんだかホッとしたのを覚えている。

とにかくひたすら書いた。何せ2年越しの想いが詰まっている。何十枚目かのトライで、自分にとって会心の出来栄えの作品ができた。先生は、ずっと横にいたわけではなくて、時々「書けたかな?」と見にきてくださるような距離感だった。書道って、自分との戦いだよね。書いて、ご指導をいただいて、また自分との戦い、みたいな。でもその戦いを最後まで見守ってくださって、納得いくまで書かせてくださったことに、超感謝している。

つけペンに憧れて〜ペンの会発足

そんな感じの先生だったので、子どもたちの「書きたい」想いはとことん尊重してくださったのだと思う。私は毛筆を習っていたのだが、妹は硬筆を習っていた。その硬筆の練習に、つけペンを使っていたのだが、小学生の私にはそのペンが素敵すぎた。インクにつけて書き進める様に憧れた。

毛筆のお稽古の時、わたしもあのペンで書いてみたい〜と話すと、先生は「じゃあ、家で練習してきてごらん。見てあげるから。」とおっしゃって。もうそれはそれは天にも上るような気持ちで、家で妹にペンを借りて、書きまくった。

毛筆のお稽古は、同じ学校で同じ学年のよりこちゃんと杉田くんと一緒だったんだけど、その二人も「いいなあ〜!わたしたちもやりたい!」と言い始め、先生は「いいよいいよ」と。1年ほど、私たちの自主的な硬筆のお稽古につき合ってくださった。自分たちの名字を一文字ずつとって、「平田川ペンの会」と名付けたその会は、小学校の卒業と同時に引越しでわたしが教室を辞めるときまで続いた。

子どもの学びたい意欲につき合ってくれる大人

人生において硬筆を習ったのはその時だけで、いまでも自分の字にはあのとき、意気揚々と学んだ平田川ペンの会でのお稽古が効いていると思う。しかし何よりの学びは、子どもたちの学びたい意欲につき合ってくれた大人がいて、自主的な学びが実現したことではなかったか。自分のアイデアで学びの場を切り拓いた経験こそが、小学生の私には得難い経験だったと思う。

そういう大人に、わたしもなりたい。



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