レアリアということば
#note100本ノック
Day 33
先日、レアリアということばに出会った。初めて聞くことばだった。それは、Platyさんにいただいたこちらの記事へのコメントにあった。
学生が洋楽Dictationから、(わたしの意図など関係なく勝手に)言葉選びの感性を発見しているというこの視点に「わああ、ほんまや!」とうなるのと同時に。
となったので、調べてみた。
レアリアとは
そうなんだ!知らなかった!なんて素敵なことば!と釘づけになってしまった。
英語教育では「オーセンティック」なものを、とよく表現するけれど。
オーセンティック:あくまでも単に「本物」の意
「レアリア」 :「教育のためにわざわざ作られたものでない、本当のもの」
「オーセンティック」よりもなおわたしの意図に近い気がする!このことばを使うと、わたしの想いをより表現しやすくなるのでは…?と思えて震えた。
おそらくわたしはここへのこだわりが相当強いのだ。大学の授業では基本的にテキストを用いていない。それは「レアリア」な教材を使いたいからなのだ。
材のもつパワー
ところで本日、このミーティングに参加していた。
ICCEPETは地球市民を育てる小学校外国語教育のネットワークだ。東京学芸大学の阿部始子先生が主宰で、これが毎回「心を動かされる」「価値観を揺さぶられる」題材に満ちているから面白い。
今日の阿部先生のお話のなかに、「オーセンティックな題材」に関してこんな言葉があった。
そう、題材がもう力を持っているわけで、教員の仕事はそれをいつ、どこで、どんな風に学習者に投げていくかをデザインすることだけなのではないか。
そういう意味では、やはり「オーセンティック」と「レアリア」は近いことばでもあるな。
色褪せてみえるとき
これはわたしだけの感覚なのかもしれないが、どんなに素敵な題材でも、テキストに掲載されてしまうとなんだか色褪せて見えてしまう…。
昔からずっと思っていた。例えば、わたしが小学生だったころ、大好きなあまんきみこさんの『車のいろは空のいろ』という本から『白いぼうし』という話が国語の教科書に採択されていたとき。
あまんきみこ(1968)『車のいろは空のいろ』.ポプラ社
授業で読む『白いぼうし』はこども心に「本で読んだときの感動がうすれている感じがするんだけど」と思っていた。それは既読だから、とかいう単純な話ではなく、おそらく読み手の自由を奪われたことへの違和感だったのかもしれない、と今は思う。
本としての『くるまのいろはそらのいろ』はわたしの自由な発想のなかにあった。しかし国語の教科書にあった『しろいぼうし』は、読み方の正解が決まっていて…幼いMAKIには、とても窮屈に思えたのではないか…。
わたしだけじゃない?
この感覚を記事にしようと思ったのは「レアリア」ということばに出会ったことともうひとつ、最近のオールライトちえみ(友人)とのやりとりがあった。
そうそう、そうなの!それなーーー!
おそらくだが、わたしは意図から自分で、あるいは学習者とともに見つけていきたいタイプ。だってこの題材についてわたしがとらえる世界観とこどもたちがとらえる世界観って、向き合ってみるまでわからない。
だから「教材」になった瞬間、その題材が色褪せてみえてしまう。だって、誰かがとらえた世界観や意図が、すでに入ってしまっているから…。
大学院にいたころ、文学の解釈は読み手の自由、ということばに強く惹かれたのと同じで、題材をどう料理するかも教員の自由なんじゃないかなあ、って。
題材だけ羅列してあるようなテキストがあればいいのに。題材集、みたいな。でもテキストになった時点で「レアリア」じゃないってことか。
今回は「レアリア」ということばから、こんなにいろいろなことを考えてしまいました。それくらい、強烈な出会いでした。
出会わせてくれたPlatyさんに、感謝を込めて。
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