ミルク 最終話(全5話)
かくして人の妻になってはや10年。
人生も折り返しを迎えようとしている。
わたしはわたしを理解しているのだろうか。
代筆をお願いしたのは、そんな疑問からだったのやもしれない。
表現活動をする人たちを敬愛し、その背中を追いかけながらも
その世界の表に自身が立つことを夢物語にしてしまった。
表側の世界にあんなにも興味があったのに、今、そこにわたしはいない。
それは諦めたというより明らめたという表現がしっくりくる感覚で
そこにいくにはこれまでの人生がいろいろありすぎたのだ。
準備ができていなかったのだ。
大器晩成、人生の折り返しから成功する歴史上の人物たちにもよく用いられる表現である。
成す、というのはどういう状態を示すのか。
成功、とは、何なのか。
冨や名声や美魔女のビジュアルや、and so on、
人物や状況によってそれは異なるのだと理解している。
では、わたしにとっての成功とは何か。
その答えを模索しているのが今なのだと思う。
表側の世界に立っていない現状を見つめなおし
ほんとうに好きなものの世界の扉をたたくことにする。
自分の才を見直すというか、自分の好きなものを見直すというか、
気付けばわたしはダンススタジオにいた。
遅すぎるスタートとは重々承知のうえで、今、わたしは休日の愉しみとやりがいを手にしている。
そもそも表や裏と決めつけていたのは自分自身で、表が正義なわけでも裏が悪なわけでもなく、結局のところ表も裏も全部わたしのなかにあり、どちらを選んでも自分でそれを正解にするだけ、好きなほうを選んでいるだけ、見つめ直したらそんなふうに気付くことができたのだ。
例えば精神世界にも触れてみて、
いつか、心理学を専攻していたころをほんの僅か思い出してみたりして
向き不向き、その分野に於いては人より時間がかかるタイプだということを再認識して。
好きなことができるのはこころと時間の余裕と、
でも何よりも自身の意思が重要であると思う。
気づけばダイヤモンドを貰えるような婚姻年数になり、果たしてこれは節目なのか通過点なのか。
人より時間がかかるのは、人と向き合うことにもそう言える、ような気がする。
和暦が平成から令和に移り変わる折、
こころの声に従う、あなたはほんとうはどうしたい?
インフルエンサー、とりわけ女性起業を後押しするような風潮のなか、流行った問いかけである。
欲望や野心や自分を大切にすることイコール自身のこころの声を聴く、それを喜ぶ一部の界隈を横目に、幼いころより自分の気持ちにふたをして、自分のこころの声などとうの昔に深海の底へと沈めていった過去の自分を思い出す。
長男長女にありがちな、それこそ身近なひとたちのこころの声を察知する能力を身に着けていってしまったわたしは、無理をするのではなくごく自然な流れで、誰かの望む立ち回り、誰かを悲しませない振る舞い、誰かを陥れることのないよう、細心の注意を払って、生きてきた。時にこころを殺して、生きてきた。
決して哀しむことではない、当たり前と思っていた日々。
自身に向き合い、深堀りをと試みては、自分という人間は深みがなく、すぐに奥底に手が届き、ああ、面白みのない人間だ、誰かと比べるのが正しいとは言えないけれど、自分の浅はかさと何者でもなさに辟易とする。
と、まあ、いろいろなことがあるけれど、今の人生を選んできた自分を嫌いではないし、結果オーライ、しあわせではある、ような気がする。
わたしはわたしなりに、目の前のひとのこころの声ってやつを聴いても聴かなくてもいいし、
空気を読んで顔色を窺ってなるべく最適解を見つける言動をとるもよし、とらぬもよし、
なにを選択するかもわたし次第だし、たいていのことでは相手は傷つくことはなく、わがままに思われることもないことにもようやく気付けた。
私はどう生きるか。
これからの未来をどう迎えに行くのか。
まるでそんなことに想いを馳せていることを悟られることのない人生を謳歌している。
これは、自叙伝という名の、わたしの物語。
駆け寄る速さも落ちた涙をともに拾うこともあまりなかったけれど、あの頃、放課後に教室に残り誰に向けるでもなくふたりで歌った日を懐かしみながら、付かず離れず、20余年の付き合いになる彼女に代筆をお願いできたのも、きっとわたしの物語には欠かせない登場人物だからなのだと思う。
彼女に限らず、いま、まわりにいる人たちを心から好きだし、それはきっとこれまでの人生あるいは前世でもどこかで交錯していて、来世でもまた逢えるよう願っていたりする。
わたしの人生の正しい答えなぞなく、信じられる道を歩いていくだけ。
その先に想像だにしない未来があるのか、はたまた獣道が待っているのか、
わたしはただ歩いていくだけ。止まらずに、歩いていくだけ。
あるいはこれから、まだ何者かになるチャンスが待っている、ような気もする。
大器晩成と昔から思っているのは、なぜか自身のなかでブレずに持ち続けている野望があるから。
根拠はないけれど、
わたしの生きてきたこの人生と
ありあまる才能を活かしてドカンと稼げる才覚がある、となぜかずっと信じているし、たまたま知り合えた手相界の父にも太鼓判を押された。
わたしのペースで、
未来を迎える。
それだけは、決めている。
いつか表舞台と呼ばれるところに立つ夢を胸に、
わたしは今日も表現活動に勤しむ彼ら彼女らを推しながら、ダンスレッスンに向かうため、上り電車に飛び乗る。
未来はわたしの手の中に。
人生はつづく
【あとがき】
あのころ、彼女とわたしは放課後になると、何をするでもなく教室に残り、思うことを語ったり、詩にしたためたり、流行っていたフォークデュオの歌をハモったり、ふたりの時間という青春を謳歌していた。北関東の片田舎の学校に通っていたなかでは斬新なファッションスタイルを貫いていた。
進学し、進路が変わると会えない日々が続き、わたしは新しいコミュニティでまた違った青春を送ることになる。けれど、彼女のことはこころの片隅で気にかけ、でも自ら連絡を取るでもなく、綺麗事に聴こえるかもしれないが、時が来るのを待っていた、ような気がする。
その時は終わる、ではなくはじまり、ということを知り、今日があのころと呼ばれるようになることを知り、辛くてもそれでも進むならかならず飛べることを知ったいま、あのころ理不尽と思っていたことや漠然としたここではない感に自分以外を否定することでしか保てなかったアイデンティティたちを懐かしみ、誰かからの評価や人目なんてどうでもよくて、自分という存在がいかに大切で素晴らしいかをきちんと思い出し、止まらずに歩くと決めた彼女を、ほどよい距離から見守ることができる人生にわたしも感謝をし、少し大きめな歩幅で、わたしも歩いていくことにする。
そう、西暦は前進しているのだ。
おわり