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「信じられるものか」と「今自分が信じるか」は別のこと。

基本的に人を信じない人と、すぐに信じてしまう人がいるけど、私は明らかに後者だと思う。

私は基本、人の可能性を信じたいと思っているし。
人間は、人としても生き物としても本来いろんな力を持っていて、発揮できていない力も発揮できる可能性があるものだと思う。

誰でもまだ成長できるもので変われるものだと思うし、だから年齢とか環境とかを理由に諦めてほしくないとか思う。

けど、そうはいっても、変わらないし信じても無駄な人もいるのだと認めないといけないなというのが昨日の学び。

なんかそれは、そうだとわかった、というより、認めるしかないな、という感覚だった。
多分頭ではわかっていて、でも、「信じたい」「信じているべき」みたいなところがある気がする。

こう考えているからこうするべき、みたいな、自分の考えからずれたようなことをしたくない気持ちもあるように思う。
対人支援をするのにだって、その人がもっとよくなるって信じてないとできないし。
その人が変われるし何かできるしよくなれると信じていないと、支援していて伝わってしまうと思うし。
信じてもられているからがんばれたりするっていうのもあると思う。

実際、変われる人やいくつになっても成長していく人を見ているからというのもあると思う。
変わらない人も成長しようとしない人ももちろんいるけど。
でも、変える気がなければ変わらないのはあたりまえで、変わる可能性がないわけではないと思う。

とか書いてて、ほんとにそう思うのも確かではあるけど、単に、自分が甘くておめでたいのだとも思う。
物語の中によくある、何かが悪くさせただけでほんとはいい人、みたいな、根っからの悪い人はいないと思いたい。

性悪説的な、人を信じられなくて疑ってというのが、つかれるしぎすぎすした感じになっていやだなぁと思うし、それよりも信じてみるあたたかくて平和な世界がいい、というのがある気がする。

絵本みたいなやさしくてやわらかい世界にいたい。

でも、「変われる可能性がある」「信じられるべき存在である」みたいな概念的な話と、自分がすべての人を信じたり変われるものとして関わるというのは別の話だ。

犯罪者であっても生まれたときから犯罪者ではなくて、環境などによって犯罪者になったのだ、という考えは賛成したいけど、その人たちに関わりたいとか支援したいとかは思わない。

だから、誰でも変われるものだと思うし信じていいと思うけど、誰にでもどこかに信じたり支えたりしてくれる人がいるだろうと思うけど、私がすべての人を信じたり支援したり関わったりしなくていい。

書いていたらそんなのあたりまえだよなぁとも思うけど。
基本的な考えや概念としてこう思いというのと、個々の行動がすべてそうなるかということも違うし、例外だってあってあたりまえなのに。
自分はこういう考えだからそれに沿っていなければ、みたいな極端な感じがある気がする。

基本信じていたいというのはあるけど、「信じたい」の時点で、その瞬間は信じていないのを頭でコントロールしているんだよね、ということ。

こうあるものだ、こうすべきだ、っていうのは、結局今目の前のことや今の自分を見てなくて、ちゃんとそのときそのときを見て判断しないといけないなと思う。

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