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スヌーピーが来た日

 月に着陸したのはアポロ11号ですが、その前のアポロ10号の時からテレビは実況中継をしていました。アポロ10号は月には降りず、月を周回して着陸船を放し、その後回収する練習のミッションだったのです。毎日変わりばえのない映像が延々と映るのですが、私の父はずっと見ていました。乗組員たちの聞き取りにくい交信の声が聞こえていましたが、ふと見ると字幕の文字は暗号みたいでした。
 「スヌーピースヌーピー、こちらチャーリー・ブラウン」
 「スヌーピーよりチャーリー・ブラウンへ」
 NHKのアナウンサーと真面目な解説者のおじさんが、
 「何を言ってるんでしょうねえ?」「さあ?」
 その翌日、アナウンサーが得意げに言うのです。
 「わかりました、私、調べて来ました。チャーリー・ブラウンというのはアメリカの人気漫画の主人公で、スヌーピーというのはそのペットの犬の名前なんだそうです」
 「はあ、そうですか」とおじさんは気のない応答……
 チャーリー・ブラウンはアポロ本船の、スヌーピーは着陸船の愛称だったわけですが、日本にはそのことは知らされていなかったようです。
 するとある週刊誌が、「これがスヌーピーだ!」と、ピーナッツのコミックストリップを掲載したのです、日常米語の言い回しの解説つきで。「わあ、かわいいじゃない」ということで、やがてスヌーピーの姿が日本中にあふれることになったのでした。
 
 ある日、スヌーピーが犬小屋の上に寝そべる例の姿で、「アンドリュー・ワイエスが云々……」とつぶやきます。「アンドリュー・ワイエスはアメリカの国民的画家」と解説がついていました。当時ほとんどの日本人は知らなかったわけです。その週刊誌はすぐに、「これがアンドリュー・ワイエスだ!」とばかりに、巻末グラビアに一枚の絵を載せたのでした。草原のただなかにぽつんと建つ家を見上げて、ピンクのドレスの女性が草の上に座っています。題は「クリスティーナの世界」。
 顔が見えないので若い女性のように見えますが、クリスティーナはかなりの歳で、脚が悪いのです。それは彼女が、病身の弟と二人きりで暮らす家へ這って帰ろうとする姿なのでした。    スウェーデンからの移民の家に生まれ、ほかの地を見ることもなく、その家で生涯を終えたとのことです。ワイエスはいとおしげに猫を抱く彼女の姿を描き、弟が彼女のために調理をする台所の煙を描き、二人が亡くなって住人がいなくなった家を繰り返し描いています。
 
 ワイエスも、フィラデルフィア郊外の自宅から、そのメーン州の片田舎の別荘に通うだけで旅行もせず、その地の風景や近隣の人々を写実的な筆致で描き続けました。ドイツ移民の老夫婦、黒人の労働者、先住民の農夫。そうしてそれらの人々が輪になって踊っている夢の世界の風景も。
 難民や移民の問題が深刻化している現在、アンドリュ-・ワイエス(1917-2009)があらためて注目されています。
 アポロ宇宙飛行士が日本にスヌーピーを連れてきて、スヌーピーがアンドリュー・ワイエスを日本に紹介したというお話です。

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