Time in a Bottle
学生時代、テレビのない生活をしていました。ラジオも中古の小さいものでFMが入らないのです。欽ドンのラジオ版を聴いて笑いました。当時のヒットソング、チューリップの「心の旅」、ローリングストーンズの「As Tears Go Bｙ」などが流れていました。
聴きたい番組がない時にはFEN（米兵向けのAM放送）を聴きました。それであちらのヒット曲をずいぶん聴いたのです。ビリー・ポールの「Me and Mrs. Jones」、スタイリスティックスの「You Make Me Feel Brand New」などが繰り返しかかっていました。もちろんDJは英語でべらべらしゃべるので、当時は曲名も歌手の名もわからなかったのですが。
耳を引かれる声がありました。軽やかな明るい歌がいくつも流れるのですが、乾いた感じなのにポップ歌手にありがちなかすれ声ではなくてなめらかなのです。バラード調の歌もあって、前奏間奏のギターの音も美しい。
ある日、湯川れい子がDJをしている日本の放送でその歌手の曲がかかったのです。やっとその歌手の名前がわかると、耳をすませて曲の紹介を聴くと、なんとその歌手はもう亡くなっているというのです。死後にリリースされた歌が向うのヒットチャートで一位になったりしているのだと。
その時かかった曲が「Time in a Bottle」。シンプルな英語の歌詞の一部の意味がとれました。
時を瓶づめにできるなら
あなたとの日々をつめよう
かなわなかった望みと夢を入れる箱があったら
それは空っぽ
思い出だけが入っている……
その後テレビより先に中古のステレオを手に入れ、その歌手のレコードをさがして買いました。ジム・クロウチ。ジャケットの写真は、大きな鼻の下に縮れ毛の大きな口髭を生やした男。ジーンズ姿でギターを抱いています。老け顔ですが、1973年に30歳で、飛行機事故で亡くなったのです、「ミュージックが死んだ日」のリッチー・ヴァレンスのように。
今はスマホの音楽アプリを手に入れて、音楽が自由に聴けるようになりました。彼のアルバムは３枚しかないということでした。「美しすぎる遺産」というのが日本でつけたアルバムの題。彼の息子もシンガーソングライターらしい。まあそうなんだろうと思いました、親の七光りというものかと。
ある日手持ち無沙汰に彼の息子のことを検索してみました。A.J.クロウチ。縮れっ毛以外は親父に似ない細面の端正な容貌。父親の歌のカヴァーを歌っていますが、声もごく普通の高めの嗄れた声。
ところが彼は視覚障害者だというのです。Blind Abilitiesという、視覚障害者が自らについて語るためらしいサイトがあって、それに参加して語っているのです。インタビュアーも視覚障害者なのでしょう、彼の視力の状態や、生活上の問題などを突っ込んで訊いていました。
A.J.が淡々と語るには、２歳で父親を亡くし４歳で失明したと。彼は言うのです、問題は視力を失ったことよりトラウマだったと。
彼の母親が夫を亡くしたあとにつきあった男性が異常性格だった。つまり彼はその男に虐待されたのです。母親が取った処置は彼を寄宿舎つきの学校に入れることでした。その時彼は４歳でした。そんな幼い子を受け入れる寄宿舎があるのか？ 幼い子供に行きとどいた世話のできる施設だったのか？ 彼は耳に感染症があったのですが、それは治療されなかったのです。ある日訪れた母親が、彼が失明していることに気づいて、病院に連れて行きました。脳膿瘍が脳腫瘍のように視神経を圧迫していたのです。命もあやうい状態でした。
それから10歳まで、彼は失明状態でしたが、その後左目の視力がやや回復しました。彼は３歳の時に少し字をおぼえていたので、普通の学校に行き、一番前で授業を受けました。彼の視力は、黒と白のようにコントラストがはっきりしていればいいが、「木とその影の区別がつかない」というのです。それでも彼は野球もして、ヒットを打つことができました。しかし守備の方はできなかったと。
視力が回復する前から、彼は独学でピアノをおぼえ、父親のレコードコレクションを聴きまくり、レイ・チャールズやスティービー・ワンダーのようなシンガーソングライターになりたいと思っていました。彼の母親がジャズバーを開いたので、彼はそこでピアノを弾き、訪れたミュージシャンに見出されてアーティストへの道に進んだのでした。
A.J.自身のインスタグラムに動画がのっています。日差しの明るい農場の庭で、幼い彼を父親のジムが肩車し、空に振り回し、いとおしげに抱いて大きな髭で笑っている映像。Time in a Bottleが流れています、この時を瓶詰めにできるなら……
あらためてA.J.のアルバムを聴きました。彼自身の歌を、彼自身の声として聴きました。
参照：Blind People Abilities : A.J. Croce https://blindabilities:com>