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ゴジラの夢7.私のSF遍歴

 1980年の年が明けたとき、唐突に私は思った。
「あ、ハレー彗星がくる」
 もちろんハレー彗星がくるのは1987年だからまだ先のことだったが、1980年代にはいったことは、私にひとつの感慨をもたらしたのだ。ハレー彗星が来るまで生き延びたということだった。

 子供のころ、幼年クラブや少年画報などの雑誌に、しきりに宇宙探検のマンガや物語が載った。私は宇宙旅行は現実にできるのだと思っていた。
「ばかね、火星になんか行けるはずないじゃない」
 と母親がいうので私は驚いた。
「でも月には行けるんでしょ」
「月だって行けないのよ」
 私は納得できなかった。何年もたってから、ソ連が世界で初めての人工衛星をうちあげたというので世間が騒いだが、私は現実はまだそんな段階なのかとがっかりしたものだ。その後もソ連は、犬をのせた人工衛星をうちあげたりしていたが、人が乗った人工衛星が飛ぶのはまだまだ先のことだった。

 そのころ私は友達に借りて星の話を読んだ。宇宙の法則や、太陽系の惑星のそれぞれの姿や、銀河のことなどをマンガで説明する科学の本だった。私はようやく宇宙旅行の困難さを理解した。しかしその本のなかでハレー彗星の話が印象に残った。76年に一回だけ地球の近くに訪れる星だという。私はそのほうき星なるものが見たいと思った。計算してみると、私がまだ生きているうちにその星はめぐってくるらしかった。1987年、それははるかに遠い先のことだった。しかもその時自分はなんと38歳になっているはずなのだ。38歳のおとなの自分を、10歳の私は想像できなかった。子供の自分が、いったいいつを境におとなの自分に入れかわるのだろうかと思った。

 テレビ時代になってから「宇宙船シリカ」という人形劇があった。これはとても面白かった。ピロという少年が、姉のネリとネモ艇長と、シリカという宇宙船に乗って宇宙を旅する話だった。いろいろな星をたずね、いろいろな宇宙人(今で言えば異星人というのだろうが)と出会うのだが、異質の文明との接触による行き違いやあつれきが、いろんな喜劇を生むのだった。
 そのころ初めての有人の人工衛星がうちあげられた。シリカのなかでさっそくそのことが、登場人物のせりふに出てきた。
「はじめてガガーリンが宇宙から地球をみて以来、あの地球の青さは、宇宙を旅するものにとって忘れられない故郷の星の色だ」
 そうか地球は青いのかと思った。それは一つの感慨だった。でもその青い地球の写真はその後もなかなか見ることはなかった。新聞もテレビもカラーではなかった。
「タイムトンネル」という、当時評判のテレビシリーズがあった。タイムマシンの故障で過去の世界に迷いこんだ二人の若者がいろいろな時代をさまようのだが、この若者達があるとき1911年に不時着した。ハレー彗星が近づいており、これが地球に衝突するというので人々はパニックに陥っており、異常気象があいついでいた。ところがタイムトンネルが彗星に引力をおよぼし、彗星の軌道がずれ、彗星はタイムトンネルを通って現在にむかって接近してくるのだ。タイムトンネルのスイッチを切って危機をまぬがれた時、科学者のひとりが言う。
「ハレー彗星は1911年に地球にぶつかるはずだったのだ。タイムトンネルが軌道を狂わせたので、それていったのだ」
 この手のタイムパラドックスはその後SFを読み慣れれば陳腐なものだったが、当時の私にはとても新鮮だった。
 それから松本零士(当時は松本あきら)と牧美也子共作のマンガも印象深い。海に沈んだアトランティス大陸からのがれて来た少女と、ギリシャの少年が出会って恋をする。ところがハレー彗星が空にあらわれ、天変地異が起こり、二人は別れ別れになってしまう。アトランティスの人々は、彗星のさししめす方向に楽園があると信じて去ってゆく。あとでそのことを知った少年は、少女の去って行った方向を知るため、その星が再び現れるまで長い年月を待ち続ける。再びその星が現れたとき、年老いた彼はよろよろと砂漠のかなたに去ってゆく。
 ハレー彗星の周期が76年と知っていた私は、とほうもない話だと思った。しかしそんな情熱もありうるのかと思えば感激もあった。そんな話が私のハレー彗星に対する夢を育てた。

 1980年が来たとき、10歳の自分にとって考えにくいほど遠い未来に思われた時が、あと数年にせまっていることが不思議だった。そして私自身は、30歳をこえても10歳の自分とちっともかわっていなかった。
 しかし1987年が近づいてくるとマスコミが騒ぎだした。ニュースショーなどがさかんにハレー彗星をとりあげたので、私はうんざりしてしまった。自分だけのロマンにしておきたかったのに、他人に無神経にいじくりまわされて手垢がついて汚れてしまったような気がした。それに今回の接近はかなり遠くをかすめるだけなので、肉眼ではほうきの尾も見えないのだと知ってがっかりした。また見えるのは明け方近くで、しかも地平線にごく近いところなので、空気が澄んで街の明かりのないところでしか見えないとも聞いた。結局その時のハレー彗星はごく少数の天文学マニアのものに過ぎなかった。実際にハレー彗星がやってきたとき、私は仕事に追われて星を観察するどころではなかったので、結局見ないでしまったし新聞記事もろくに読まないでしまった。
 もう私の生涯にハレー彗星がめぐってくることはない。子供のころから思いえがいていたほうき星を、もう見ることはできない。

 SFは、高校時代に隣の席だった友人の影響でずいぶん読んだ。
 なにしろ私のSF入門は小松左京の「復活の日」だったのだ。彼女が貸してくれた本だった。ハインラインの「時の門」だの、ソ連のSF「宇宙翔けるもの」なども、彼女から借りて読んだものだったと思う。また彼女はよくいろいろなストーリーを語ってきかせてくれた。半村良の「収穫」も彼女の語りで知ったのだ。
 そのころ私は薔薇色の未来という感じの話は好きではなかった。なにしろ彼女はその後大学で美術史を選び、ギュスターヴ・モローを研究した人だから、アラン・ポーだの江戸川乱歩だの、とにかく頽廃的なものが好きだった。彼女の影響を私は受けていたのだ。その頃の私はアシモフが理解できなかった。やたらに会話が多くてアクションが少なく、なにより未来について楽天的なのが面白くなかった。もっとも「銀河帝国の興亡」を最初に読んだのがまちがっていたのだ。もっと小粋な短編はたくさんあったのに。それでアシモフはその後20年ばかりも食わず嫌いのままだった。
 暗いビジョンの未来といえば、手塚治虫の「火の鳥・未来篇」が最高だろう。コンピューターの出した結論から世界戦争が起こり、人類が滅びてしまう話。このマンガから、ブラッドベリという名を知って読んだ「華氏451度」、光瀬龍から荒巻義雄、ゼラズニイからシルヴァーバーグまで、暗い未来の話ばかり読んでいた。

 ハレー彗星が去ってしまった後、救急病院勤務の殺伐とした日々を過ごしながら、夜ひとりの部屋で読む本はSFかミステリーだった。ある日アーサー・C・クラークの「火星の砂」という話を読んで、不思議ななつかしさをおぼえた。SFなどという言葉もまだない子供の頃に読んでいた宇宙探検の話そのものだったからだ。宇宙船ではなくロケット、宇宙飛行士ではなくロケットの乗組員、恒星間旅行ではなく火星探検隊。明るい火星の砂、おとなしくて友好的な火星の生物たち。人類が進歩し明るい未来が開けているという、登場人物たちのかげりのない信念。そうだ、宇宙探検の話とはこういうものだったのだ。
 その後アシモフも読んだ。そしてまだ生きている人だと知って驚いた。アシモフはH.G.ウェルズぐらい古い時代の人のように思っていたのだ。石森章太郎の「リュウの道」に出てくるロボットはアシモフからとってアイザックという名だった。「ロボット三原則を作った人」という知識はこのマンガから得たものだったのだが。そうだ、私はとんだ思いちがいをしていた。リュウは遠い昔の人という言い方をしていたが、あれはあのマンガの設定が遠い未来だったからだ。アシモフは現代作家だったのだ。彼がロボット三原則を提唱したのは二十歳そこそこだったのだ。
 アシモフとクラークをずいぶん読みあさった。どちらも未来のビジョンは明るく、SFは楽しい冒険ものだった。人間像が類型的なクラークより、煙草を口の横っちょにくわえ、ジョークを飛ばしながら宇宙の苦難にたちむかう、タフな宇宙野郎たちの活躍するアシモフの話のほうが私は好きだ。
 1992年に、72歳でアシモフが亡くなった時、新聞記事を読みながら誰かが言っていた。
「まだ生きていたとは思わなかったなあ」
 私はかつての自分の驚きを思い出して、少しおかしかった。アシモフについての自分の知識を少し披露しようかと思ったが、朝の忙しいときだったので、それはせずにしまった。

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