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完璧な失踪

完璧に失踪するにはどうしたらいいですか、と聞いた夏のことをよく記憶している。まだ会社員だった頃だ。8月の土曜、陽射しは容赦なくアスファルトを灼き、熱風は飴のように全身に絡みついた。打ち合わせのため都心のターミナル駅に出たが、とにかく追い詰められた気分でいた。失踪したい。抱えている仕事から、ままならない人生から、どうにかして逃げたい。誰も知らないところで人生をやり直したい。そう切望した。無理難題を突きつける代理店、締め切りの山、休日も深夜もひっきりなしにかかってくる電話。「あの企業のプロモーションに関われる」という憧れだけでやる気を出せる時期はとうに過ぎ、「クライアントがピンチのときにヒーローになれる」といった意識の高い言い換えで気持ちを立て直せるのは一瞬に過ぎなかった。睡眠不足で靄がかかった頭のなかに、ふと記憶が蘇る。以前、過労で倒れて入院したのも夏だった。汗ばむ肌、照りつける陽射し、蝉の声。

しかし悲しいかな、よく鍛えられた社畜である私はクライアントのビルにまっすぐ向かい、自動ドアをくぐったのだった。打ち合わせをせねば、月曜からの仕事が回らない。失踪したいと思っておきながら、この真面目さである。仕事終わりに私は聞いた。完璧に失踪するにはどうしたらいいですか。どこに身を潜めればいいのでしょうか。

「まずは協力者を見つけることです。そして絶対に、家から出ない。連絡も取らない。何があっても」

その人は私の目を見て、淀みなく答えた。思わず「何が、あっても」と繰り返すと、彼は続けた。「ええ。買い物にも出ない。働きもしない。ずっと家にいれば、誰も探すことはできません」

その日から、私はいなくなることばかりを夢想した。日光は浴びないといけないだろうから、日当たりのいい部屋がいいだろう。たまには運動もしないといけないだろう。そうなると広さも必要だから、物件が安い郊外が望ましいだろうか。いや、と思う。地方都市がいかに監視社会であるかは、地方出身者として嫌というほどわかっている。都会が一番なのだ。誰も隣人に関心を持たないような。食品などの買い物は「協力者」に任せるとして、仕事はどうしようか。物書きとしてのキャリアは捨て、イチからペンネームでやり直すのが順当か。振り込み先の銀行口座だけはどうしようもないから、「協力者」のものを借りる。愛が続かなければ、もしくは病気にでもなれば、ゲームオーバー。

仕事を終えた午前3時のバーで、夜ごとそんな夢想をした。ぎりぎりまで照明を落とした店内、キャンドルの灯り。道玄坂の夜景は何時まででも明るかった。頬杖をつきながら飲む琥珀色のジャックダニエルがことさら甘やかに感じたのは、氷と一緒にありえない夢が溶けていたのだろう。甘いあまい、誘惑。そして空が白む頃、現実に帰るのだ。そこかしこにゴミが打ち捨てられた、まだ薄暗い道玄坂を下りながら。石畳でヒールを傷つけながら。

「いざとなればこうやって失踪すればいい」という思いは、どこか懐刀のように私を支えた。知らない街に引っ越して、扉を閉めたら最後、二度と外の風景を見ない。そして生き直すのだ。

結局、私は失踪することはなかった。100点満点ではなかったかもしれないがなんとかお役目を果たし、会社を辞めて独立をした。長い時間をかけて仕事を少しずつ手放し、やりたい仕事とできる仕事だけを残してきた。面白いのは今が、どこかあの日聞いた「完璧な失踪」めいた生活であることだ。ほとんど家から出ない。強い信念があってそうしているわけではなく、締切があって出られないだけなのだが。もちろん編集者さんやクライアントと連絡は取るし、生活用品は買いに出る。でも締め切りで10日も家から出ない日が続くと、ふと失踪したような気分になる。バーで夢想した続きを、今生きているような。

勝手に過ぎる考えだ。あまりに浅薄だし、そもそも失踪することで自分が満たされるとも思わない。そして残された人がいかに胸を痛めるか、というのも知っている。

失踪した知人が2人いる。ひとりは恩師と呼べる存在だ。詐欺にあって失踪したが、どこか失踪するために詐欺に「あいにいった」ような気がするのは、いささか行き過ぎた想像だろうか。探しに行った先はすべて空振りで、彼は数年後に泉下の客となって発見された。
もうひとりは東京に来て、初めてできた友人である。最後の頃には悲しい扱いもされたが、それももはや昔の写真のように優しく色あせてしまった。情が厚く、芯が強く、寂しがり屋の人だった。友達も職場も、慣れた環境も捨ててひとことも告げずに行ってしまった彼が、今もどこかで幸せに笑っていて欲しいと思う。友達だから。

夜更けにときどき、彼の写真をクッキーの缶から出して見る。当時は世慣れた剽軽なおじさんだと思っていた彼の笑顔が、今ではただ若く不器用な苦笑いのように見えるから不思議である。彼がいなくなって20年が過ぎ、写真に写った彼の年齢はとうに超えた。問いかけても届くはずはないのに、問いかけずにはいられない。今どこにいますか。何をしていますか。南の生まれのあなたが、どうかどうか、寒い思いをしていませんように。


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真木あかり
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