さよならカッシーニ
無人探査機に弱いのである。
大きな使命を背負わされ、たったひとりで遠い宇宙の旅に出る。目的地に着けば未知の環境で失敗が許されない仕事をして、コンスタントにデータを送り続ける。本当に偉いと思う。その終わりなど見てしまうともうだめだ。たとえば小惑星イトカワに到達し、その地表をサンプルとして地球に持ち帰ったはやぶさ。その身を焦がしながらオーストラリアに帰還する姿は何度見ても泣いてしまう。みずからの死をもって、人類に宇宙の謎を解明するカギを与えてくれたのだ。
太陽系の宝石・土星を巡った探査機、カッシーニの最期も哀しい。衛星・タイタンとエンケラドスに生命の可能性を見出し、美しい土星の環をすり抜け地球を沸かせた。期待を一身に浴び愛され見守られ続けたその最期は、土星の大気に自ら突入するというものだった。仮に前述の2つの衛星に生命が存在するのならば、地球から持ち込んだ微生物が影響をもたらすようなことはあってはならないから、というのがその理由だ。カッシーニは土星に向かいながら、死の間際までデータを送り続けた。大気めがけて突っ込むその瞬間まで、アンテナをずっと遠い故郷に向け続けて――。
旅を続けている無人探査機もある。たとえば1977年に地球を出発したボイジャーに、2006年に旅立ったニュー・ホライズンズ。天王星に海王星、冥王星、そして太陽系外縁天体へと旅を続けながら、人類にまだ見ぬ宇宙のデータを送り続ける。真っ暗な宇宙をひとりぼっちで、終わりなき旅を続けるのだ。
彼らの軌跡に胸を熱くしつつ、ああ危険だなあ、いけないなあと思う。彼らを擬人化して見ているのは、完全に私の主観だ。心を持たない彼らは、単におのれの役割を果たしたに過ぎない。仮に心を持っていたとして、そんなに悲劇的な発想をしていたとは限らない。なにせ、“生きる意味”を明確に持って誕生したわけである。はやぶさなら「完璧な仕事をしたぜ!!」と満足感でいっぱいだったかもしれない。カッシーニなら、土星の光景にわくわくしていたかもしれない。そしてボイジャーやニュー・ホライズンズは、誰にも邪魔されずに自由な旅を満喫しているかもしれないではないか。宇宙は真っ暗でも、星々は鮮やかに輝いている。
子どもの頃から、なんでもないものに「おはなし」を見出すことに慣れていた。ひどくいじめられてしまって友達ができなくて、人よりも花や木や星を見ていたからだ。そよ風に揺れる花は、何も語らなかったが傷つける言葉も言わずにそっと寄り添ってくれた。木はどんなときも、どっしりと変わらずに受け止めてくれた。淋しくて夜空を見上げると、星はいつでもまたたいてくれた。こうしたことも含め、無人探査機の「物語」はすべて私が作り出した妄想なのである。
物語を紡ぐのは、素敵なことだ。そこから学んだ教訓が、勇気や熱意や、明日を生きる希望のための燃料になったりするから。でも、偏った見方をして酔うのも、それはそれで危険なのだ。出会う人を、ステレオタイプにはめて見るクセがついたりするかもしれないから。占い師を生業としている以上、それはときに人を傷つける。
起こったことに、どんなストーリーを与えるかは自分次第だ。コップ1杯の水を見たときに「もう半分しかない」と捉えるか、「まだ半分もある」と捉えるかで心のベクトルは大きく異なる。勝手に何かの物語を投影して引っ張られたりしないように。どんなことにもフラットに向き合い、まっさらな状態からストーリーを紡げるように。そのために心を整えたいと思う。起こることをどう解釈するかは、すべて自分次第なのだ。
いつか来る、ボイジャーやニュー・ホライズンズとの別れの日には、きっとまた泣いてしまうのだろうけれど。
2020年下半期の運勢が本になりました。