傷つきっぱなしで生きたりしない
30代の終わり頃、仕事関係の集まりがあった。懇親会で妙に馴れ馴れしい男性がおり、年齢を聞かれたので正直に答えたら「ウゲッ」と顔を歪め、あからさまに素っ気なくなって別のグループのところへ去っていった。わかりやすい人だな。呆れつつもその場は笑顔でやり過ごし、帰ってから少し泣いた。「お前にはもう女として価値なんてねえよ」と言われたような気がしたのだった。こんな台詞は言われていない。私の想像であり、彼は「ウゲッ」のほかは何も言っていないのだ。理屈ではそうわかっていても、私は傷ついたのだった。
好きでもなんでもない、それどころか初対面の他人である。道を歩いていたら犬に吠えられた程度のもので、さっさと忘れればいい。でもずっと、その記憶は棘となって私の心をちくちくと刺した。年齢を重ねたなりの価値はある。そう思っていたし口にもしていた。でもすっかり自信をなくし、このまま誰からも顧みられずひとりで生きていく未来を思った。
そして、今となっては「引きずりすぎだろう」と笑ってしまうのだが、ちくちくしたまま2年が経った。長すぎではないか自分よ。しかしあるとき突然、悲しみ続けることに倦んでしまった。そういう人は、そういう価値観で生きていけばいい。でも私は、年齢だけで相手を判断し、あまつさえそれをあからさまに出すような人間とは付き合いたくはない。私は私が重ねた年月には価値があると思っているし(まあバカなこともいっぱいしたけど)、それを同じように大切と思ってくれる人を大切にしたい。お互いに「いらんわ」と思っているなら、それでいいではないか。
傷つくのは、自分が大切にしているものを損なわれたと感じたから。そしていい年齢になってもなお他人を無邪気に損なう人は、まず治らない。ただ居合わせただけなのに、私がそれを引き受けてあげる義理もない。私はふるいにかけられたけれど、私もまたふるいにかける立場にあるのだ。年齢だけではない、私を損なう人など私の人生にはいらない。たとえ相手が誰であっても。
かくして私は、私の過去や年齢などまるで気にせず、パーソナリティを見てくれる人と出会い結婚した。笑い話として前述のエピソードを話したところ「年齢ってただの数字だし、いくつであってもどう生きているかが大事だと思う。年齢で人を判断する人ってなんなの?この数字がグッとくるとかあるの?」と心底不思議そうにしているので笑った。自分の知らないことを相手が知っている、相手が知らないことを自分が知っている。そうしたものをお互いに理解し尊重できることが、一緒にいる意味なのではないか。そう言語化してくれたとき、この人と一緒に生きていきたいと思った。
思うに、他者に傷つけられるというのは、自分らしく生きていくための「ふるい」を手に入れることでもあるのだろう。自分を損なう人を見分けるための。自分を損なう環境をできるだけ取り除くための。または、傲慢だった自分の嫌なところや、いらない思い込みをまじまじと見て、いらないものだと気づくためのものでもあるかもしれない。ふと、この短歌のことを思い出す。
気づくとは傷つくことだ刺青のごとく言葉を胸に刻んで
枡野浩一『ショートソング』より
気づくとは傷つくこと。過去、人から損なわれたのだと気づくたびに、どれほど傷ついてきたことだろう。でも、傷つくことから気づけることもある。それは胸の傷を、いささか軽くしてくれることもあるのではないだろうか。
夜中にふと目が覚めて、つらつらと思いを巡らせる。私を傷つけ損なってきたものたち。ふるいの網目を通らずに残された、私の人生にはいらないものたち。そして頑丈な枠組みに強い網を張った、私だから手に入れることができた立派なふるいについて。気づけてよかった、私は無事だ。傷つきっぱなしで、生きたりなんかしないよ。
苦い経験が、ほんの少し活かせたコラムを書きました。もしよろしければ、お読みいただけると嬉しいです。
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