ぎんなんとコミュニケーション
好きなタイプ、というものを聞かれると、私はいつも「手をつないで歩いてくれて、コミュニケーションが取れる人」と答えている。前半が半笑いでスルーされるのはまあよい。共感を得にくいのは後半で「そんなの誰だって当てはまるじゃない」と笑われるのだ。当たり前じゃない、そんなのわざわざタイプとして挙げること? というのが彼らの主張である。
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ぱきり、と音を立てて、なめらかな皮膚をもつ太い指がぎんなんの殻を割った。我々は大衆居酒屋のカウンターに並んで座り、小鉢に盛られたぎんなんと対峙していた。真っ白な塩に埋もれた煎りたてのぎんなんには、いささかささやかすぎるヒビが入れられ、うまく割ると薄皮に包まれた浅いグリーンの身が顔を出す。殻も熱いが中身も熱い。不器用な私が「あっつ!あっつ!!」と苦戦していると、その人が私の分までむいてくれたのだった。ありがとう、と言って口に含むと、熱くねっちりとした食感の次に、豊かな香りが口いっぱいに広がった。おいしい、と思わず漏らすと、その人は自分のぶんをむきながら満足げにうなずいた。それを口に放り込むと、今度は次のひと粒を手にとる。私にむいてくれるために。
煎りが浅いと薄皮がうまくむけないこと。小鉢にたっぷりと入っている塩は、保温と焦げ防止のふたつの意味があること。ぎんなん拾いに行った子ども時代の思い出。手がかぶれること。親のぎんなん割りが高速なこと。そうした会話の合間合間にぎんなんを手渡したり手渡されたりして「おいしいね」「ね」が繰り返される。バーバル&ノンバーバルコミュニケーション。
一緒にいるからコミュニケーションが取れているとは限らない。目の前にいる私ではなく、スマホでつながっている誰かとか、心のなかにいる誰かとか、視線の先にいる誰かとか、「いまここ」でないものに思いを飛ばす。それは仕方のないことであり、止めることなどできない。私が相手をいくら好きでも、いくら大切でも。こちらの思いの強さの埒外にあることだからだ。決して短くない時間を生きてきて、自分もまたその愚を犯すこともあった。だから、友達でも恋人でも仲間でも、「コミュニケーションがとれる人」がことさら、ありがたく思えるようになったのだ。
太い指が小鉢に残された最後のひと粒を割ると、それまで口に運んでいたぷっくりつやつやの身ではなく、しわしわの平らな身が現れた。「これはおいしくないから、食べなくていいよ」と彼が言う。指先でその身と殻を、塩にうずめながら。やさしい人だなと思う。
嫌だなあ、コミュニケーションの可能性を、また信じたくなってしまうなあと心のなかでうそぶきながら(もう信じてしまっているのにね)、コミュニケーションなき日々を経験することの意味もまた、感じるのだった。あの日々がなかったら、私はコミュニケーションを当たり前のものと信じていただろう。ぎんなんひとつでこんなに豊かな交流ができることもまた、気づけずにいたのだろう。「たられば」の話をしても、詮無きことだけれども、ね。
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