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捨て場だったころ

東京に緊急事態宣言が発令された日から長い原稿を書き始め、解除されたその日に最後の句点を打った。はからずして外出自粛を忠実に守り抜いた形となったわけだが、まあよい。何はともあれ体力の限界である。締切が終わったら本を読もう酒も飲もうと思っていたものの、這うようにしてベッドに向かい、ただ泥のように眠る。

  *  *  *

人影もまばらな25時の青山通りを、ダークグレーのセダンはすべるように――と言いたいところだが、想像以上にガタピシと走った。夏のはじめの、生ぬるく粘るような空気が肌にまといつく。「ここの古いクルマが好きで。外車でメンテひとつでも大変なんだけど、大事に乗っているんだ」と彼が愛しそうに言うその車は、はたしてエアコンが壊れているのであった。なんならルーフウィンドウも手動である。開けようと手に力をこめたその瞬間、カーラジオからファミリーマートの入店音が流れ、いいタイミングだねとふたりで笑った。

私たちはよく鍛えられた社畜だったので、会うのはきまって深夜になった。渋谷で拾ってもらい、首都高を流しながらとりとめもない話をする、その時間が好きだった。仕事のこと、人間関係の悩み、感動した言葉、忘れられない人生のワンシーン。彼の聡明さと経験の厚みに比べたら、私が語れることはほんとうにわずかで、自分がちっぽけでつまらない人間に感じられてくる。そんな人と特別な関係に至ったのが夢のようで、とても大切で、せめて彼の鋭敏な感性ゆえの苦悩をわずかでも和らげてあげられたらと願った。窓の外を近づいては流れ去っていく無数のビルの灯火は、どこまで行っても途切れることはない。まるで、星々のあいだを泳いでいるように。

  *  *  *

長い酔いのようなまどろみから覚めると、夜の闇が寝室を染め始めていた。夢だったのか、と思うまでにしばらく時間がかかる。彼はすでに泉下の客となったというのに、こうしてたまに夢に見る。

最後に会ったのは秋風が吹く頃だった。半袖では寒く、長袖では暑い季節のはざま。霧雨が降る水曜に、緑深い場所へ赴き滝を見た。都心と比べるとびっくりするほど寒い滝の前で、水面を見る彼の背中はどこか存在感を欠いて見えた。実体は確かにそこにあるのに、現実味がないように見えたのだ。今だから、そう思えるのだろうか。

今から思えば――そう思うことばかりだ――いつが最初でいつが最後だなんて、彼には関係がなかったのだろう。気が向いたから連絡した、気が向かなかったから連絡しなかった、それだけ。私という存在は、彼の連綿と続く日常の、たくさんある取り替え可能なパーツのひとつに過ぎなかったのだろう。何も特別な話ではない。実にありふれた話だ。

ぱたりと会えなくなってから随分経って、一度だけ電話があった。私は渋谷のMARUZEN&ジュンク堂書店にいて、本を小脇に抱え直してエレベーター脇に移動し、電話をとった。仕事が辛いこと、プライベートでも逃げ場がないということ。どこにも吐き出すことのできない、ワインの瓶底に溜まった澱のような感情を、彼は滔々と語り続けた。かつて渋谷のバーで、恵比寿のダイニングで、目黒のビストロで、そして車のなかで、何度も語られた苦痛。いっこうに途切れない、むしろ途切れることを恐れるように語り続けるその声に、私は彼にとって「気持ちの捨て場」というパーツだったのだなと理解した。傷つきはしたが、捨て場マインドがそう簡単に抜けるわけもない。私にできることがあれば、なんでも言ってください。そう私は答え、彼はいつものちょっといい声で「そうするよ」と言った。それが最後になった。

暗い部屋のなか、電話越しの「そうするよ」が、まるで昨日聞いた声のように脳裏に響く。捨て場の後日談についても語っておこう。捨て場はその後も何人かにわりといいように利用されて荒廃し、すっかりだめになった。そして今のパートナーと出会った。彼は自分の感情を精錬して、ユーモアや教訓、今後の指針として磨き上げる方法を熟知していた。経験は活かしてこそ意味がある、それが彼の信条だ。誰かを気持ちの捨て場にするようなことは決してなかった。かくして荒れ果てた捨て場にもペンペン草が茂り始め、蝶が舞い、あたたかで穏やかなものも置かれるようになった。そしてたまに、捨て場だったころのことを思い出す。

彼は捨てきれなかったのだろう、捨てても捨てても。もしも気持ちの捨て場が再生工場としての役割も持っていたら、何かが変わっただろうか――いや、同じことだろう。それはパートナーシップというものであり、ただ捨てたいだけの人は、そこまで求めない。私はただの捨て場だった、それ以上でもなくそれ以下でもない。それでよかったのだ。


ちじょう  谷川俊太郎

てんしがそらのあおときぎのみどりをかなしむとき
ひとはあいするもののくるしみをくるしんでいる
つばさあるものがいわしぐものたかみから
くりやのこめのひとつぶひとつぶにめをそそぐと
それはほしぼしとなってひかりをはなつ
だがひとははいずりまわることをやめない
てのひらもくるぶしもどろだらけちまみれで

しねばなにもかもわすれさることができるのだろうか
いきているうちにおかしたつみのかずかずも
もしそうだとしたらひとをよろこばせまたくるしめた
あのあいのおもいではどこにきえうせてしまうのか
あいにひそむにくしみはてんしにはみえない
いつまでもしなないつばさあるものは
つみもはじらいもしらないからだでほほえむだけ

ひとごみのなかひとびとのあたまのうえを
わになってとぶあどけないものたちのうたの
つかのまのなぐさみにみみをすませば
からだのおくにとぐろまくへびがめをさます
つみをおそれていきるよろこびがあるだろうか
このちじょうはかがくのおしえるほしではない
しすべきものたちのおどるつかのまのあれちなのだ

(『夜のミッキー・マウス』より)

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真木あかり
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