「失敗」という言葉を捨てたい
こどもが、わざとではないけど床にお茶をばしゃーんとこぼした時。
自分が疲れてると特に「も〜」とか「しっかり持って」等が口をついてしまうけど、本人もこぼしたくてこぼしたわけではない。
失敗、したくてしたわけではない。
そもそもお茶をこぼしたくらいは、失敗でもなんでもない。
職場でだれかがお茶こぼしてもよほどそんなこと言わないのに、子供には言ってしまうって。
失敗?
失敗って、なんだろう。
何か面倒なことや、難しいことに取り組む時、「ゲームだと思ってやってみましょう」。
よく聞く考え方。
でも、わたしは物事の取り組みを「ゲーム」と捉えるのは苦手だ。そこにうっすら霧のように、優劣や勝敗や、失敗の匂いを感じてしまって。
いってみれば、「実験」のほうが格段に気が楽だ。
勿論、実験が失敗した、とかも言葉としてよく聞くのだけれど。
実験は、基本一回で成功するもんじゃないというイメージがある。
また、他者との戦いというより、仮説や自分の考えや発想とのうねりとか、まざり、対話的な側面を感じる。
(といっても、私ゴリゴリの文系なので、これまで理系的な実験とは全く縁のない人生ですけれども)
色を絵の具で塗り重ねて塗り広げてすすんですすんで、どんな色になるか、どんな風に見えていくか観察していく。
色と色との境目は明確にはなくて、塗ってみた、試してみてできたもの、がそこにある。
3歳も、よく同じようなことをしている。葉っぱをちぎってみよう。この砂と水を混ぜてみよう。この穴にこの石を入れたらどうなるだろう。
そういう行為には競争の気配がなくて、私はやわらかな気持ちになる。
私はいったいなぜこんなに優劣を恐れているんだろう。
「失敗」という言葉を、まず私の中から捨てたい。
「失敗」のない世界観で、どう自分が感じるのか、見てみたい。