甘い誘惑に紅きくちづけを

 太陽がやや傾き始めた昼下がり、女は鼻歌を歌いながらかぼちゃをつぶしていた。
 生クリームをつぶしたかぼちゃとまぜる。滑らかになるまでかきまぜる。ぐちゃり、ぐちゃり、静かな台所に反響する。素足だと寒い季節になったなと思いながら足の指をきゅっと握る。
 外を見ると黒い群れが歩いてるのが見えた。大きな黒い旗をはためかせている。人がすっぽり隠れるくらいの大きさだ。風が吹いているのがわかる。二人で持ち、揺られながらも歩いていく。
 10人ほどの黒い群れ。行列。二列にならび行進している。後方の4人が木の箱を持っている。黒い布が箱にかけてあるのが見えた。
 葬列、か。
 じっと見つめながら昨日の会話を思い出す。

—―別れよう
—―誰か好きな人ができたの?
—―実は子供ができた……。
—―相手はあいつね
—―すまない
—―所詮出世のためには好まない相手とも結婚するのね
—―すまない
—―どうせ私は遊び相手、ね
—―そんなことはない。本気だった
—―だった、ね
——い、いや
—―いいのよ。ねぇ
—―なんだ
—―今日誰かにここに来ること言った?
—―言えるわけないだろ
—―そう……

 彼が上司の娘を紹介されたと言ったのは半年くらい前だった。その気はないけど、会いもせずに断れないから会うだけだよ。その場でちゃんと断ってくる、なんて言ってたっけ。会ったらもっと断れないでしょと思ったけど言わなかった。だから、こうなることをどこかで予感していたのかもしれない。
 次の日に会った。彼は言った。断って来たよ。タイプでもなかった。がさつで洋服もブランドで固めただけでセンスもないし、話も続かなくて退屈だった。そう。私はそれだけ言った。その割に昨日のメッセージには既読もつかなかったね、と心で思いながら。
 いつになく饒舌な彼は、ネクタイを緩めると荒々しく腰を抱いてきた。そして、少したばこ臭いくちづけをしてきた。私はしらけながらも受け入れた。気付かないフリをしていたほうが人生は楽だ。何も気付かないでいたい。落ちたゴミは誰かが拾えばいい。私の視界には入っていない。優先席に間違えて座っても寝たふりをすればいい。目を閉じていれば、老人も妊婦も足を痛めた人も見えない。見えないのは、いないのと一緒だ。
 それから彼は残業が急に増えた。
 ねぇ断ったら出世に響くんじゃないの?と聞いたことがあった。
 公私混同しないのが僕の上司のいいとこなんだよ。だから、ちゃんと会って断るのが筋だと思った。上司もわかってくれたよ。そのうえでそれでも僕の仕事を評価してくれてる。残業も増えたけど、出世の道筋もはっきり見えている。今の仕事が落ち着いたら結婚しよう。プロポーズをさらりと言った。甘さのかけらもなく。嘘のコーティングをして。

 思い出しながらにやついてしまった。私は甘いのが大好きなの。だからたっぷり砂糖を入れよう。甘やかしてくれない、甘い言葉を囁かない男なんていらない。私から願い下げよ。

 足が寒くて乾燥してかゆくなる。屈んで、ぼりぼりと、みっともなく掻いた。肌が赤くなる。赤。赤。赤。屈んだまま視線を少しあげた。視界の端を赤いものがよぎった。赤いリンゴがあった。ひとつ取り、袖で軽く拭いてかじりつく。
 口に痛みが走った。歯ぐきから血が垂れるのがわかった。鉄の味が広がった。指でそっと赤をすくう。なんだか悲しいような嬉しいような不思議な気分になり、鼻歌では飽き足らず、大きな声で歌った。
 曇った目の端に黒い葬列が映った。

 彼の手、重かったなぁ。
 泡だて器を乱暴にふりまわす。黄色い柔らかい飛沫が飛んだ。
 バニラエッセンスを数滴垂らす。ふんわり薫り漂う。鼻が喜んだ。嫌な臭いもバニラの香りが隠してくれる。気持ちが高揚してきた。型に流し込みオーブンにかけた。200度の熱風がかぼちゃを焼き尽くす。
 かぼちゃのケーキは、彼の好きなスイーツだった。
 私はラズベリーが好きで、甘い甘いかぼちゃのケーキに酸っぱいラズベリーソースをかけるのが好きだ。彼はいつも眉をひそめてかたくなにソースをかけることはなかった。
 まるで血のように赤いラズベリーソースを作った。滴る液体が眩しい。
 気付くと葬列はいなくなっていた。誰かが死んだのだ。遅れてそう思った。死んだのだ。死んでいくのだ。実感がこみ上げる。
 あの黒い群れはどこまで歩いていくのだろう。
 窓まで近づき、額を窓につけた。ひんやりとして気持ちがいい。黒い葬列がもう一度見たくて窓を開けて必死に探したがもう見えなかった。がっかりした。部屋に戻ろうと窓に手をかけた。その時ふっと頬になにかが触れた。
 それを手に取ると、黒い羽根だった。カラスだろうか。見上げるが何もいなかった。どこからか飛んできたのか。そう言えば風が止んでいた。
 深く考えようとはしなかった。
 ふと思い立ち庭に降り、羽根を掘った穴に放った。ふわりと舞って落ちた。
 部屋に戻るとケーキが焼けたとオーブンが知らせてくれた。かぼちゃの香りが充満していた。甘き香り。誘う香り。
 熱いケーキにソースを垂らした。赤く染まり、黄色を染めていく。
 フォークを取り、ケーキに突き立てる。乱雑に黄色と赤を混ぜる。マーブル模様になり、眩暈がするようだ。
 —―ねぇ美味しい?
 なんどそう言っただろうか。もう言うことはないのかと思うと少しだけ感傷的になった。一口分フォークに取ると床に向かって投げつけた。べちゃりとこびりついた。

「ねぇ。美味しい?」

 声にはっきりと出してみた。

 呻くような声が小さく聞こえた。

 アキレス腱を切った時の感覚が手に蘇る。鶏肉の筋を切るようにすっと切れた。手術用のメスの切れ味がいいと言うのは本当だった。
 手首を切り落とすのは大変だったが、重力に任せて重たい斧を振り下ろすこと三回。骨ごと切れた。この時点で、彼は気を失った。
 床が血で塗れている。
 切り落とされた手首も掘った穴に入れてある。鼻もそいである。下唇は血に染まり真っ赤だった。ラズベリーよりも赤く黒かった。
 黒い葬列。誰が亡くなったのか。誰を葬ったのか。

 ねぇ美味しいでしょ、と閉じられなくなっている口にかぼちゃのケーキをねじこむ。なんとか言って。いつもそう。美味しいともなんとも感想ひとつ言わなかった。
 にこにこしながら黙って食べるのをいつも眺めていた。
 それが本当に憎らしかった。
 私は家政婦じゃねー!フォークを目ん玉に突き刺す。血が白を塗りつぶす。乱暴にかき混ぜて引っこ抜くと、かすかに白い筋を血がしたたり、やがたぶつりと切れた。目ん玉をなめる。鉄の味がした。
 舌を切り、喉につかえないように器具をはさんである。声帯もきってあるためにまともにしゃべることも声を出すこともできないあわれな男。気を失い、痛みで覚醒し、また気絶することを繰り返す。起きるたびに自分の機能が損なわれているのを知るのはどれだけの恐怖だろう。
 最初こそ失禁をしながら命乞いをしてきて、それがたまらなく五月蠅くて、声をどうにかしなければと医学書を読んで死なないように声帯を切れた時には、医者を目指すべきだと思った。看護師に甘んじた過去の自分を少しだけ恥じた。院長の娘にうつつを抜かしたこのやぶ医者を赦そうと思うほどに恥じた。
 汚らわしい姿で、いろんな液体にまみれた醜い顔で、声にならない声を必死に出して懇願された。その憐れな姿に免じてこれ以上のオペはしないと約束した。彼は目から涙を零した。嬉しいのだろうか。片方の眼はなく、舌もなく、鼻もなく、耳はペンチでつぶしておいた。
 手首から先は左右ともになく、止血のために熱したフライパンを押し付けたあとがあった。足の腱は切れて立つこともままならない。
 痛みを感じないようにとモルヒネをどれだけ注射してあげただろうか。感謝してほしいくらいだ。肩の腱も切ったのでなで肩のようになっている。

 女は黒い服を翻しながら、彼に歩み寄り、ラズベリーか血かわからない指についた紅を唇に塗り、そっと彼のむき出しの心臓に口づけをした。
 
 これは言わゆるあれかしら。

 そう。生前葬ってやつね。

 窓の外に天使の黒い羽根が舞っている。
 どこかで誰かが唱えた。あーめん。

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