我が家の歴史3~曾祖母と眼の見えない女性~
いらっしゃいませ。
いつも読んでいただきありがとうございます。
今回は曾祖母のお話をしましょう。
名前は黒川ヒサ
曾祖母は若い頃から身体が弱かったそうです。
でも大変美人で、住んでいた所が恵美須町という名前だったので「恵美須町小町」と呼ばれていました。
お姉さんがいたそうですが、元気だったはずのお姉さんが先に若くして亡くなられて、身体の弱いヒサさんが残ったのです。
でも、三味線の名手で、裁縫は芸者の打掛けの、裾に綿が入ったぼてっとした着物の裾の数ミリ程 下を出して縫う技術は誰にも負けない程の腕だったそうです。
そこへ養子に入った曾祖父が芸者遊びが盛んだったのですが、ヒサさんも一緒に行って芸者顔負けの三味線を披露したのです。
芸者さんは「奥方の三味線に1本付けんといけんね!!」と絶賛。
この1本はお酒の事ではありません。
芸者が三味線を弾く時には線香を炊いて1本幾らと値段がついていたのだそうです。
聞かなきゃわからない当時の文化!!
そうなんだ!と貴重な話に感動しました。
昔は裕福だったのね(笑)
曾祖父が登場しましたが、曾祖父の話は後で登場しますのでここは割愛します。
ある日、ボロボロの托鉢僧がヒサさんを見て、
「あんたが16歳の頃まであんたの傍にいた女性が、あんたの事が心配でずっと憑いてる。あんたにお墓に来て拝んで欲しがっているから、墓参りしなさい。」
と伝えたのです。
母親がいないヒサさんの為に養育係として眼の見えない、足の悪い老女をその方の世話をする姪御さんと一緒にどこからか引き取ったのでした。
まだ6歳のヒサさんが学校から帰ると、玄関で「ただいまー!」と上がると、
足が悪いので夏でもコタツで足を温めていた女性は
「ヒサさん?もう一度玄関に行って草履を見ていらっしゃい。草履があっちとこっちになってませんか?」といさめられたのです。
そして、家ではその女性がヒサさんに論語を教えたり、百人一首を
「僧正遍昭~。天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ~」と作者から暗記をさせたと聞いています。
眼が見えないのに!!
さすがです。
ヒサさんは祖母に言わせると生き字引だったそうで、それはこの女性の教育の賜物なのでしょう。
ヨネさんはその女性が亡くなった時に、葬式をして萩市街の南の高台にある「南明寺」というお寺に埋葬したのです。
朝から行って、探しても探しても見つからず、疲れ果てて夕方になって
「おばさん、ごめんね。どれだけ探しても見つからなかったよ。せめてこの目の前のお墓を拝むから受け取って下さいね。」と目の前のお墓を見たら、そこがその女性のお墓だったのです。
私は聞いた時に鳥肌が立ちました。
そんな事があるんだ・・・。
上のタイトル画像は南明寺の糸桜です。
萩でも河津桜の次に早く咲く桜です。
はからずもその女性は誰なのか、知る時が来ました。
2000年、平成12年のNHK新春ドラマスペシャルで「蒼天の夢」という高杉晋作や吉田松陰のドラマがありました。
吉田松陰に中村橋之助、高杉晋作を野村萬斎というキャストでとても見応えがありました。
その中で、吉田松陰が野山獄に投獄された時に同じ時期にいた女性に高須久子さんという女囚がいました。
彼女は三味線が好きで、高須家に嫁いだ後も三味線を弾いていて、当時三味線を弾いたりしながらお金を恵んでもらっていた穢多、非人の男性の三味線があまりに見事で家に呼んでは弾かせていた所、ご主人が久子さんを不義密通で訴えて野山獄に投獄されたのでした。
純粋に三味線が好きで、身分のこだわりを持たなかった久子さんの気性が仇になったのです。
ドラマの中では、とてもプラトニックな吉田松陰と高須久子さんの心情が素敵に描かれていました。
その高須久子さんの役を天海祐希さんが演じられたのです。
私は以前からちらっと聞いていたけど、まさかね。と思っていたのですが、祖母は食い入るように見ていました。
そして「この高須久子さんが母を養育した眼の見えない、足の立たないばあ様だ!!絶対間違いない!!」と叫びました。
天海祐希さんの高須久子さんは凛として素敵な女性でした。
祖母も「私も久子さんはこんな女性だったと思えるよ。」としみじみ言っていました。
ヒサさんが三味線の名手だったのもこれでうなずけます。
それから色々調べましたが、何せ資料がない。
野山獄の過酷な中で長年過ごして来たせいで眼も見えなくなったのか、足も立たなくなったのか・・・。
彼女のその後は一切わかっていません。
決め手は久子さんがヒサさんに言った言葉でした。
「ここに野山獄で松陰先生が使っていたお膳を頂いて持っている。これをあなたに上げたいけど、甥にあげなければならないからあなたに上げられなくてごめんなさい。」と言われたのだそうです。
間違いない。高須久子さんだ!!
それからは色々調べました。
少ない資料からは出生はわからずとも、おおよその亡くなった年を予測してみたら、2002年が高須久子さんの100回忌だとわかりました。
奇しくも2002年、祖母の癌が見つかって、末期で入院していて出席は叶いませんでしたが、我が家の仏壇でしめやかに100回忌を営み、時刻を合わせて祖母は病室で観音経を唱えたそうです。
祖母はこれで思い残す事はないと喜んで、9月に静かに旅立ちました。
ヒサさんのエピソードはまだまだあります。
次回はヒサさんが祖母を産む時のエピソードと、祖母の回をお話します。
お楽しみに♡