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我が家の歴史10~祖母と家族①~
いらっしゃいませ。
いつも読んでいただきありがとうございます♡
今回は家族についてお話します。
まず祖父は祖母と正反対で寡黙で、いつも家庭菜園や花壇の世話、鶏を飼ったり、お風呂の薪を割ったりしている後ろ姿の思い出が強くあります。
小さい頃はよく添い寝をしてもらいました。優しい祖父でした。
父はとても優秀で、研究者肌で、郷土博物館の学芸員の後に館長になり、後に市立図書館が出来た時には初代図書館長を兼任しました。
地学、岩石、天文学が専門で、博物館では「星の会」や「天文同好会」の先生をしていました。
SFが好きで、ハヤカワSF文庫が部屋中に並んでいて、とてもロマンチストだったと思います。
趣味は電卓を弾いて家族のホロスコープを作成していました。
しかし若い頃は肺結核で手術をしたりして、高校は6年間通ったそうです。
そんな父には優しい奥さんがいいだろうという事で、見合いで母が嫁いで来ました。
ところが母はのんびりした家庭から来たので、祖母の言う事に着いて行けません。
母の試練、嫁姑問題は日常茶飯事でした。
ここまで読まれた方はもうおわかりでしょうが、今まで余りに優秀な人ばかりが居すぎたのです。
優秀で当たり前、とてもプライドの高い不健全家庭に私達は生まれました。
私達は長女の姉と私達双子の三人姉妹でした。
姉は身体が弱く、心臓を患っていて、成長期には側弯症も見つかって、手術をしました。
20歳まで生きられないと言われましたが31歳まで生きました。
私達双子は健康に生まれましたが、母親に似ていたのでしょっちゅう叱られて育ちました。
母親の叱られる姿を見ていたので、すぐ怒る祖母が大嫌いでした。
私は陰気だったので学校でもいじめられっ子でした。
父は有名だったので、「お父さんは立派なのにあなたは・・・」とよく先生から言われて辛かったのです。
そんな父は、私が高校1年の15歳の時、交通事故で急死しました。
祖母が敷いていた父の地位による私達の将来へのレールは崩壊しました。
しかし、社会経験の乏しい世間知らずの私は社会に出てからが大変でした。
何をやっても人並みに出来ない。
20回くらい職場を変わりました。
情けない自分を変えたいと思い煩う日々で、新興宗教にも入信しました。
当然、祖母は激怒!しかし辞めませんでした。
その後、家を出て暮らしていました。
でもここでもやっぱり人並みとは行かず、頑張っているうちに1度だけ大きく心を壊しました。
詳しい事は割愛しますが、病院にも行かずに7ヶ月かけてやっと仕事が出来るようになりました。
それから数年後、ほか弁で働いて出会った年配の女性が、祖母そっくりなタイプの方でした。
人並みになりたい私と、厳しく一から仕込もうとして下さる気持ちが噛み合って、親子のような絆が出来、育てて頂きました。
そして、姉が亡くなり、双子の姉は嫁に行き、母親が弱って来たので家に帰りました。
家に帰ってから、祖母と母の言う事を聞いて驚きました。
今まで母親のフィルターを通して祖母の言葉を聞いていたけれど、
職場で厳しくしつけられた経験をして見ると、祖母は当然の事を言ってた!と気づいたのです。
私はなんて馬鹿だったんだろう。
何を聞いていたんだろう。
祖母は確かに激しいし、独裁だし、モラハラ、パワハラでした。
だから、祖母を理解するのは難しいと思います。
でも日常生活の事は決して間違った事を言っていなかった。
ただ、標準に至らない人を労る情が我が家にはなかったのです。
そんな家庭内戦争のような我が家を私が継ぐ事になりました。
今から20年くらい前の事です。
今回はここまで。
次回は祖母の最晩年のお話を私の視点からお話します。
お楽しみに♡