我が家の歴史11~祖母と家族【最終話】そして私の思い~
いらっしゃいませ。
いつも読んでいただきありがとうございます♡
私が家を継いだ頃、母が肝臓がんで手術をしたり、色々な事が重なって大変な時でした。
実は亡くなった姉は結婚して、養子を取って子供まで産みました。
しかも見合いで、親戚が「身体が弱いのに来てくれる人がいるなら感謝しなさい」
という望まぬ結婚でした。
長女で子孫を残す為、のような甚だ封建的な不条理な結婚をしました。
誰も反対出来ないほどの状況でした。
でも姉は子供が欲しかったので、産む事を決意したのです。
生まれた娘は自閉症と知的障害を持って生まれて来ました。
姉の旦那の家系に精神疾患の方がいたのです。
でも、今考えると、我が家のカルマもここに行き着いた。という結果だとも思いました。
姉が亡くなった後、姪は中2で統合失調症を発症しました。
見るに見兼ねて私は家の為、姉の娘の為に姉の旦那と結婚をして、叔母ではなく、母親になる事を決意しました。
ほか弁は辞めていたので専業主婦でしたが、自分の幸せの為の結婚でないとしてはいけないのだと心底後悔しました。
旦那は優しいのですがとても依存心が強い陰気な人で、娘の事を頼れないばかりか、甘えたい、構ってちゃんだったのです。
結論から先に言うと、旦那は3年後、離婚して実家に戻ってもらい、娘は今から数年前、私の心身に限界が来て、福祉に全択しました。
話を戻します。
当時、年寄りが2人、旦那と娘。
いきなり4対1で全責任が私の肩にのしかかって来ました。
そしてそんな中で支えになってくれたのは祖母でした。
私も祖母と同じ立場に立って、初めてその景色を知りました。
責任を取るってなんて孤独なんだ!!
祖母を酷いと批判する人は依存ばかりで支えにならない。
今まで祖母は独りでずっとこの孤独の中を頑張って来たのか!!
激しくもなるわ。そう思いました。
家を1件構えてそれを維持していくという事は、責任を取ってもらってただそこに住んでいるだけの人とはまるで視点が違うという事。
そこに気が付くにはそれまでの私は子供過ぎました。
私がし切れない事は祖母が陰に回ってサポートしてくれたり、お互いにサポートし合いました。
私にとっても、祖母にとっても、お互いが心の糧でした。
誰かの心の糧になるってこういう事か、と思いました。
そして、愛されるより愛する方が心が豊かになるんだと身をもって教えてもらいました。
母も辛かったので私に縋りたかったのですが、私には母と祖母の両方の手を取る余裕はとてもありません。
母の手を離して、祖母の手を取りました。
まさか母が祖母の3ヶ月後に亡くなるとは思っていなかったので、まず祖母の孝行をしようと思ったのです。
それまで祖母は独りで料理以外は家の事をしながら、趣味の謡曲と書道で楽しみながら自分をコントロールしていました。
すごい信念です。
私が新興宗教に入っていた時も、「私は観音様を信じているから」という姿勢を貫き、日常の当たり前を当たり前に過ごしていたのです。
私にはそれまでその姿が見えていませんでした。
ある時、広島県との県境に紅葉狩りに行った時、毎月参拝するのに利用していたサービスエリアに停まって、ここはいつも利用していると話したら
「ここがいつもあんた達が話してる所かね。やっと来れたね。」と喜んでいたのです。
私ははっとして、そうか、祖母は話に入れなくて今までひとりぼっちで寂しかったんだ!と気づきました。
ごめんね!!おばあちゃま!!
ちなみにその新興宗教は代替わりしてカルト化が強くなったので辞めました。現在はその教団もなくなりました。
それから数年後、病院で見てもらった時に全身にガンが見つかって、末期だとわかりました。
同時期に母もガンが再発、二人とも末期で余命わずかだと告げられました。
二人はなんという縁なのでしょう。
こんな言い方はとても不遜なのですが、
嫁姑の戦いは、相打ちで幕を閉じるのかと思いました。
母の生涯は本当に不遇の連続でした。
辛いばかりの一生で…
せめてあちらに行った時に、よくこの辛い一生を生き抜いたと頭を撫でられただろうか。
どうかどうか来世は幸せな一生を送って欲しいと心の底からお祈りします。
祖母の話に戻りましょう。
祖母にも死期が近いのはわかっていて、その年の花火大会を家の離れから祖母と叔母と私の三人で見ました。
その年の花火はいつもよりとっても綺麗に見えました。
その次の日に病院へ戻り、9月18日
奇しくも観音様のご縁日に旅立ちました。
叔母が傍にいたのですが、あっという間で私は間に合いませんでした。
葬式には、来客より親族の方が多いくらいに遠方の方から知らない親戚の方まで来てくださいました。
人の縁を絶やさない祖母の人柄でした。
さて、その後です。
家にお骨を持って帰って、四十九日の間、家の中に祖母を感じて暖かくて、出掛ける時は言葉をかけて出て、帰ったら挨拶していました。
四十九日の日、祖母の気配が消えたのを感じました。
ああ、あちらに行ったんだな、と思いました。
これで我が家の歴史は終わります。
祖母の生涯はあっぱれだと思います。
とてもとても私は遠く及ばないのですが、私は私なりに人生を楽しんで生きたいと思います。
長文になりましたが、最後まで読んで下さってありがとうございました!