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『わたしを束ねないで』③
③アラサー女の生きづらさ
あえて一般表現として「アラサー」としたが、実際自分が体感したのは30を過ぎてからだった。
①の教科書で初めて読んだ時、束ねられる違和感とそうなってしまう不思議さを思い、
②では束ねられる事の安心感と束ねられない側の焦燥感、不安感を感じていた。
30歳を過ぎてから、この詩を思いだした私は束ねられる窮屈さを実感していた。その上、周りの環境の違う友人も皆「束ねられている」事に対しての不満があった。
アラサーというのは、最も「女であるがゆえの窮屈さ」を感じる年代なのかもしれない。
独身である私は「結婚しないの」「婚活してないの」「一人で生きていけるほど稼げるの?」「親御さんを早く安心させてあげないと」と言われ、『娘として親孝行をしない、哀れなアラサー独身女』の看板を勝手に背負わされ、
既婚の友達は「子供産まないの」「早くしないと時間ないよ」「働いててもご飯作ってあげなくちゃね」と言われ、『○○さんの(まだ子供を産んでない)奥さん』といった扱いをされ、
子持ちの友達は「二人目は考えてないの?」「子供のために頑張らないとね」「栄養ちゃんと考えてあげてるの?」と言われ、『○○ちゃん、○○くんのお母さん』として生きろと言わんばかりの言葉を浴びせられる。
それぞれ、世間の思うイメージに縛られていく。それが一番色濃くなるのがアラサーのような気がする。
少なくとも自分はそう感じた。
自由に生きようとすると、「親御さんにドレス姿を見せたいと思わないんですか?」「親御さんに孫の顔を見せてあげたくないのですか?」「まさか女性として社会に貢献しないつもりですか?」と責めたてられる。
そしてそれが、結婚しても出産しても解放される事なく、また別の形でまとわりついてくる。
個として、単に妻や母という属性がつくということでなく、
「個」を捨てて夫に尽くす「妻」となり、育児に身を賭し「母」となれ、と言う圧を全身に感じる。
その中で、この詩が初めて、心の底から「しっくり」ときた。
稲穂のようにただただ揺らいでいたい、束ねないでほしい、自由にそよいでいたい。
アラフォーになった今の感じ方、さらに多様性の問われるようになった時代について次回④でこの「わたしを束ねないで」についてまとめたいと思う。