見出し画像

You will be quiet #6


     1

「……ねえ弓子さん、聞いてる?」
 私はもう一度スマホを耳に押し当てた。
「うん」
「だから、いま言ったとおりで  里美ちゃんの様子が最近おかしいのは、その『サギ』って子のせいだと思うんだよね」
 私は、しばらくあいだをおいてから言った。
「それは、本当なの?」
「……何が?」
「その『サギ』って子が  本当に鉄くんの彼女なのか、ってこと」
 有沢すずもまた、少しあいだをおいてから言った。
「……や、それはまだわかんないよ。そうじゃないかもしれないし、もしかしたら、そうなのかもしれない」
 そうなのかもしれない、とすずが言ったとき、明らかに声のトーンが下がっていた。
 私のお腹の中に、なにか黒々としたとぐろを巻いたものが溜まっていくのがわかる。それは、一匹の蛇だ。私はお腹の中に、一匹の蛇を飼っている。
 こうやってスマホを耳に当てているだけでも、わずらわしくて仕方がなかった。
 私はあの日、矢も盾もたまらなくなって鉄くんに会いに行き、そこですげない態度をされたことをもう一度思い返していた。
 その日の夜に、衝動的に切った手首の傷が、いまもうずいている。
「ねえ、もうほんと、どうしたらいいと思う? 里美ちゃんはマジで、なんかもう、ヤバい状態になっちゃっててさ。正直コントロールできないんだよね」
 私たち鉄くん推しが集まって結成した会『鉄会』のメンバーである里美は、渋谷の円山町で「立ち」をしている私と、ホテトルの稼ぎで担当ホストに「貢ぎ」をしているこの有沢すずのことを、心底軽蔑している。
 もし、自分たちとまた仲直りをしてほしいのなら  そのサギっていう女子高生をどうにかしてみせろ、とそう彼女は言っているのだ。
「……ねえ弓子さん。その子の写真見たい?」
 すずが、唐突にそう言ってきた。
 私は黙ったまま、しばらく答えないでいた。
「里美ちゃんが、自分で盗撮した写真をもう何枚も狂ったみたいに送ってきてるんだ」
 正直私は、いますぐ見たい気持ちと、絶対に見たくないという気持ちとで激しく揺れていた。
 よく、『心の天秤はかりにかける』とかって言う。でもこの場合、例えば中学校の理科の授業で使うような天秤の受け皿に、大玉のスイカとキャベツをドン、と載せるようなものだ。
 『心の天秤はかり』はきっと  おかげでぐちゃぐちゃに壊れてしまうだろう。
 そんなことを考えているあいだに、すずは私のラインに写真を勝手に送信してきていた。それを開くのに、私はしばらく時間がかかった。
 その点はすずも理解しているようで、私が見たというまで待っているつもりのようだった。
「ねえ、早く見てみて。スゴいからさ」
 隠し撮りだからか若干手ブレがあり、画質も良くはなかったが、それでも十分だ。

 ……見てはいけないものを、私は見てしまった。そんな気がした。

 私はすぐさま、そのメッセージを閉じた。
 見てはいけないもの、というのは、確実にこの世には存在する。
 例えば、神社にお参りに行って、実際にそこで神様を見てしまわない方がいい。
 もし見てしまったなら、その人間はきっとかんたんに気が狂ってしまうだろう。
 私はまさにいま、そんな状態に陥っていた。
「……見た」
「……見た? ね。スゴいでしょ」
 私はたまに、お客さんなどに綺麗だね、モテるでしょ、などと言われることがある。
 そう言われれば言われるほど、自分はブ○イクになっていく、そうすぐにも思うたちだ。
 でも、今回の場合は違った。お前は、私という存在がある以上、必然的にブ○イクなのだ。そう、はっきりと宣告されたような、そんな気がした。
「……私もまあ、いままで人並みに恋愛経験はしてきたけど、正直ここまで圧倒的に差をつけられたことはなかったね。もうなんか、自分なんて比較にすらなんないというか。だからいま、里美ちゃんがあんなになってるのも、なんかわかる気がするんだ」
 自分には今後里美ちゃんがサギに対してどうするかなんてことは、一言も言ってきていない。でも、あの様子ではとても安心できない。何か取り返しのつかないことを、この子に対してしてしまうのではないか。そうすずは言う。
「まずは里美ちゃんの話をしっかり誰かが聞いてあげる必要が、あると思うんだけど。でも、その相手がいまは千春ちゃんだけになっちゃってるから  わかるでしょ  余計火に油を注ぐ結果にならないとも限らないし」
 そのサギという少女に、自分も一度直接会ってみたい。
 いや、絶対に会わなければいけないのだ。
 私は、心からそう思っていた。
 でもそのことは、すずには言わないでおいた。
 すずとの電話を終えた後、私はスマホの中のサギの写真を眺め続けた。気が付いたら、三時間経っていた。
 それでも、見足りないのだ。例えば一個の漢字をずっと眺め続けていると、その漢字の持っている『意味』が抜け落ちていき、わけのわからないただの図形のようなものになってしまうことがある。
 でも、この場合はまったく違った。サギの写真は、汲めども尽きないような『意味』で満ち溢れていた。
 そしてその『意味』は  この私に自然と、次のような考えを強く呼び起こさせた。

 ……この子を、自分の手で始末しなければならない。
 それも、里美よりも先に。

 このとき私は、昔ある詩集の中で読んだ、中国の嫉妬深い女の話を思い出していた。
 現代詩文庫の何巻めだったか忘れたが、その詩人は、中国のとある古い本の中から、まるまるその逸話を引用していたのだ。
 その部分が、非常に強く印象に残ったので、私はそのすべてをメモ帳に書き写しておいた。
 むかし、呂后りょこうというおきさきがいた。彼女はそのかたきの女、せき夫人を憎んでいた。

 太后遂断威夫人手足、去眼燻耳、飲瘖薬、使居厠中、命曰人彘。

 太后たいこうついせき夫人の手足を断ち、まなこを去り耳をいぶす。瘖薬いんやくを飲ませ、厠中しちゅうらしめ、なずけて人彘ひとぶたふ。

 この、人彘ひとぶた、という言葉が、強烈に私の頭にこびりついた。
 昔の言葉や文章は難しくて私にはよくわからないが、でもじっと眺めていれば、なんとなくその意味は理解できてくる。
 この女の怒りと憎しみが  長い長い時を超えて、現代に生きるこの私にも伝わってきた。
 ……自分も、このサギを、人彘ひとぶたにしてやらねばならないのだ。

 有沢すずには、自分がサギを探しに行くとは一言も伝えずに、ある日私は、昼間の派遣の仕事を休んで出かけた。
 コートのポケットには、一本の刃物を忍ばせておいた。ネットで刃渡り12センチの、チタン強化コーティングされたナイフを購入した。
 まず、満員電車の中で出刃包丁のようなものを振り回すことはできないし、一回ぐらい刺してやったところで、一人の人間を確実に殺すことなどできない。
 電車の中でなく、ホームでるにしても同じことだ。細かい血管を切るばかりで、死に至らしめるような出血をもたらすことはできない。
 私は、耳の下あたりにある外頸動脈に狙いを定めていた。
 うまくそこを切ってやることができれば、死ぬまでに二十秒とかからない。
 あのおかっぱ頭をわし摑んで、顎を上げさせ、真一文字に深く、その頸動脈を切り裂く。そこから吹き出す血が、電車の中を、そしてそのまわりの人々をも、真っ赤に染め上げる。
 何よりも、私たちにとって象徴的なあの電車という空間の中で  ひと思いにあの世に送ってやることこそが重要なのだ。
 そうでなければ、る意味がない。
 鉄くんをかどわかすあの少女を、誅殺ちゅうさつしてやる。
 どうせ私は、あのとき死のうとして死ねなかった身なのだ。いまでも自分は、ただ黙って死んだように生きている。
 だったら、その後どうなろうが  もうどうだっていいのだ。
 サギの載っている電車の時間などは、ざっとすずから聞いていた。あとは、その電車の乗り込み口がどこか、だ。
 それをしらみつぶしに調べていくのに、私はずいぶん手間取った。
 始めて、三日目のことだ。私はついに、その姿を認めることができた。
 後ろ姿だったが、間違いはなかった。本人の特徴は、もう嫌というほど頭に叩き込んである。
 私は電車が来るのを待っている彼女とのあいだに人を三人おいたくらいの位置にまで、接近していた。その横顔も垣間見える。
 初めて写真を見たときとは別種の衝撃が  この私を襲っていた。この感覚は、言うなれば裏返しの感動、のようなものだ。
 あくまで負の領域に発生するような、そんな感動。
 周囲の人々は平然としているが、明らかに『異質』な何かがいる、ということをたぶん全員認識している。
 それぐらい、その存在自体がありえない。
 私はもう、同じ女として、そばにいるだけでも嫌だった。
 いますぐにでも、行動を開始したかった。でもいて動くと、ことをしそんじる可能性がある。 
 二列になって並んで電車を待っていたからか、いざ電車の中に乗り込もうとしたとき、サギと私とのあいだに思った以上に人が入って、それ以上近づけなかった。結局、私はその日はあきらめ、翌日いちからやり直すことにした。
 今度は、サギとともに電車の中に乗り込むのではなく  あらかじめその電車に乗っておいて、記憶に叩き込んだ、サギの先日乗り込んでいった車内の位置あたりで、待ち受けることにした。
 サギの乗ってくるその駅に到着するまで、私は落ちつかなかった。車窓の外の景色を見ながら、さまざまなことを考える。
 サギをこの世界から排除してやれば、きっと鉄くんは、この私に戻ってきてくれる。
 そしてもう一度  この私を痴漢してくれることだろう。
 鉄くんのその指の動きは、いつもいつも大胆だった。躊躇なく私の下着の中の、一番デリケートな部分にまで入り込んでくる。
 まるでプレゼントを抱えたサンタクロース姿の彼が、部屋の窓から突然入ってくるようなものだ。
 私のその大事な部分は、その時点でもうひどくうるおってしまっている。とても恥ずかしいが、致しかたないことだ。
 あとは勝手に、私の中の大海を、彼はそのつど思い思いの泳法で自由に泳ぐだけなのだ。そしてそのつど  私の全身を、凄まじいほどの快感が、その喜びとともに貫いてゆく。
 ただ、これまでと違うのは、そうやって楽しんでいる私と鉄くんの足元には、あの少女、サギが  制服姿で、頸動脈から血を大量に流しながら横たわっていることだ。
 彼女の目は虚ろで、その顔はすっかり青ざめ、さっきからあらぬ方向を向いている。微動だにしないが、その肌に触れれば、きっとまだ、息があったころのぬくもりがそなわっていることだろう。
 でもそれも、いずれ冷たい土のようなものに変わる。彼女は埋葬される。
 私と鉄くんの周囲の人々はスマホを見たりしているが、その全員がサギの頸動脈からほとばしり出た鮮血を浴びている。
 でも平然として  まるで人形のようにただスマホを見続け、各々の目的地に向かうことだけを考えているのだ。
 鉄くんは、それらの人々を静かに眺め渡した後で、私の唇を強引に奪い、その中に舌を差し入れてきた。
 このイメージが頭に浮かんだ瞬間、私はそのままいってしまいそうになった。
 ハッとして車内の表示を見ると、そろそろサギの乗り込んでくる駅に近づきつつあった。
 私は息を飲んで、電車が動きを止め、目の前の扉が開くのを待った。
 私の計画は、ものの見事に成功したようだ。私とのあいだに人を一人おいたくらいの距離まで、サギは車内に乗り込んでくると接近してきたのだ。
 あらためて、間近で彼女を見ることになった。
 なんて、言ったらいいのだろう。どう、表現すればいいというのだろう。
 そう、よく、「玉のような赤ちゃん」などというが、あの玉、ぎょく、という言葉以外に、ボキャブラリーのない私にはちょっと思いつかない。
 とにかく一点のくもりなく、その顔かたちは整っている。
 顔かたちだけではない。私は女としてはわりに背丈のある方だが、彼女もほぼ同じくらいあって、そのスタイルもブレザーの制服の上からでも、はっきりと、その良さがわかる。
 彼女のこの肉体に  いま鉄くんは溺れているというのか。この私をおいて。
 瞬時に、カーテンについた火が燃え広がるように、私の中に怒りがわき起こった。
 私はコートのポケットの中の、ティファール製の汎用ナイフを握りしめた。
 あとは黙って、この少女を「人彘ひとぶた」にしてやるだけである。それで、すべてが終わる。
 そう思って、一歩サギに向かって踏みこんだ、そのときだった。

ここから先は

10,954字
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?