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⒈ わたなべゆうこです。Note始めました〜からだ、こころ、ワクチンなどエトセトラ〜生きてることの不思議

ツヤツヤした髪に目を奪われた

時間つぶしに入ったカフェで、座った席は、8人がけくらいの大きなテーブル。ふと向かいに目をやったら、ツヤツヤしたロングヘアと、一心不乱にシャーペンで英単語らしき字を書き綴っている、女子高生が目に入ってきました。

テーブルの上には飲み物の大きなカップと、参考書、スマホ、大きなぬいぐるみのついたフワフワしたペンケース。あー今どきの高校生は楽しそうでいいなあと、瞬時に少しばかりジェラシーも感じたのでした。半世紀以上前の高校生の日常からしたら、別世界です。

そのあと、隣にも同じ制服を着た少女がいることにも気づきました。この子もシャーペンをすばやく滑らせながら書きものをしていました。彼女は単語ではなく少し長い文を書いているようでした。彼女の前にも私の向かいの子と同様の4点セットがあります。

勉強中の高校生を間近に観察する体験はありそうで、そうはないものです。私は、まるで競い合うようにハイスピードで書きものをしていた彼女たちに目を奪われてしまいました。
しばらく経つと彼女たちは、どちらからともなく手を休め、今度は静かに会話を始めました。

ここは、沖縄県南部の中規模市のショッピングセンター。ひなびたというほどの場所ではありませんが、大都会でもない。ですが、それぞれの少女たちの勉強への集中の度合いと、緩急のついた、好感の持てる会話ぶりは間違いなく都会的。カッコいいな、時代は変わったのだな、と感心してしまいました。

ですが、一方、漏れ伝わってくる若い世代を取り巻く、現代の環境は、貧困やいじめ、DV など過酷です。見た目のキラキラは、もしかしたら彼女たちの一面にすぎず、悩みは深く内在しているかもしれない。彼女たちはつらいことに遭遇したら、どこへSOSを発するのだろう。聞いてみたいな。おばさん(もうオバアサンだけど)はすごく気になっちゃうよ。
そんなことをボンヤリ考えていたら、あっという間に約束の時間が迫ってきてしまったので、そそくさと席を立ったのでした。

日常のまばゆさ

高校生たちもそうでしたが、ここしばらく、バスの車窓からの人の行き交いや、ショッピングセンターの家族連れなど、日常の何げない光景に心を奪われ目が離せなくなることが、たびたびあります。
いや私には元々そういう、街をキョロキョロしながら歩く傾向はあったから、自分の性癖がより昂じたとは言えるかもしれません。

なぜ、折にふれ、日常の光景に心を奪われるようになったかといえば、3年前の2月、大動脈解離という病気にかかったことがきっかけかもしれません。

大動脈解離という病名は最近かなり知られるようになったようですが、ご存じないかたも多く、私が口にしたときビックリされるかたとキョトンとされるかたの落差は、かなり大きなものがあります。

大動脈とはご存知の通り、心臓から出ている太い血管。ここから全身に血液が運ばれるので、最重要と言ってもいい血管です。からだの中で最も太い血管ということも知られていますね。大動脈解離とは、この血管が裂ける病気です。解離という名称は、血管が破裂する一歩手前の段階ということだそうです。

私が2022年2月6日、日曜日の夕方に感じた、小さなアタックは、まさに「裂けた」段階だったのでしょう。けれど病院に担ぎ込まれ、おそらく幾つかの検査と、私の家族への連絡を経て、手術室で開胸されたときには、執刀医のその後の説明では「血の海」だったそうですから、そのときには大動脈は破裂状態だったのだろうと思われます。

そこから6時間の手術を経て、翌日から翌々日にかけて徐々に
覚醒したとき、最初は自分の身にそんな大ごとが起きていたとは全く気づかなかったのですが、私は三途の川を渡る寸前にこの世に戻ってきたのでした。

ちなみに、大動脈解離をインターネット検索すると、症状は「突然の強い痛み」と出てきますから、この体験を人に話すと、決まって「すごく痛かったんでしょう?」と例外なく聞かれるのですが、私の返答はこれまた決まって「いえ、全然」。集中治療室(ICU )で目覚めたあと、初期は強い鎮痛剤が24時間体内に注入されていたからでしょう、痛みは感じないですみましたし、術後の静養期間も含め今に至るも、「痛ーい」という思いはただの一度もしていないのです。実は。

魂は今どこに

さて。3年前、大動脈解離の発症から2週間後に私は退院となりました。
最初の1ヵ月くらいは、水が溜まり長く歩けないなどの後遺症がありましたが、じょじょに回復し、4ヵ月後にはそれまで勤めていたアルバイト先のシフトに、週に10時間くらいは入れるまでに回復しました。

但しその頃はまだ、自分に起きた病気、そこから生還したことの重さをシカとはわかってなかったように記憶しています。
実は罹患した人の約半数が、発症当日に亡くなってしまう病気だということも、後から知りました。

ちなみに、この病気で亡くなった有名人、芸能人も少なくありません。著名な人では、大瀧詠一さん、もんたよしのりさん、笑福亭笑瓶さんらがいます。
大瀧さんは奥様が看護師で、倒れた当日もそばにいて救急車も呼んだとのことですが、病院到着時に死亡が確認されたとのことです。
笑瓶さんは実は再発。つまり一度は助かったのに次の機会には助からなかったわけです。

じょじょに知るうちに、私は「いのちの不思議」を感じずにはいられなくなりました。
花を見ても、木々の木洩れ日を見ても、渋滞のバス内でも、「死んでしまってたら、私はこれを見ていないわけだ」という思いが先に立ちます。いつもいつもというわけではありませんけどね。でもそして思うのです。
あのまま死んでたら、私の魂はどこを彷徨っていたのかな、と。

亡くなった友人や恩のあったかたがたの魂は今どこに、どうしているのだろう、とも。親からの勧めで小学生当時に受洗した私は、カトリシアンではあるのですが、今の私はほぼ無宗教に近いのが、偽らざるところ。
しかし、あの日に自分で救急車を呼んだとき、自分が死の淵にいるとは夢にも思いませんでした。
では、あの日に気を失ったまま死んでいたら、私は、私という主体は、いったいどこへ行ってしまったというのでしょう?

病気にかかったとき私は68歳。それなりに死生観は持っているような錯覚を持っていましたが、全く違っていたというわけです。

いのちの不思議


こうして私は「いのちの不思議」に、今さらながらに気付いたわけです。

考えてみれば、いのちはいつだって理不尽な偶然に左右されています。生まれたばかりの命が大地震によって亡くなったり、70歳を過ぎてドライバーをしていた男性が、突然の道路陥没事故でトラックごと地中に吸い込まれたり‥。

いのちの不思議、生きてることの不思議。
病気以後に起きたこと、体験したことは、当然ながら、いいことばかりではありません。
嫌なことだって当然起きます。病気前に親しくしていた人が、とんでもないハラスメントおやじで(私が受けたわけではありません。被害に遭ったのは別の人たち)、結局絶交することになったりね。
でも、今のところ、良いことは、嫌なことを上回っています。いや、量や数で幸せや良し悪しをはかるのは意味ないなとも思っています。

締切が辛かったことも一因でライター稼業を辞めた私が、このNoteを、ちゃんと続けられるかは、正直に言うと自信はないのですが、沖縄で知り合い、濃ゆい時間を過ごさせてもらった、先に逝かれた人たちを思うと、そんなこと言ってちゃあかんな、とも思います。

この桜はtakoさんの好きだった与儀公園。最初に挙げる写真は何にしようと考えてたときtako さんにちなんで、ここの桜にしようと思いました。月に2本くらいは続けていこうと思いますので、どこかで渡辺と会ったら、「Note 書いてるー?」と、聞いてくださいね。

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