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虎に翼、獅子に鰭、鬼に金棒、法と術、矛と盾

声が声として認識されるためには、届けばいいのだと思う。
それが金棒であろうと翼であろうと、法であろうと、術であろうと、なんでも。

かつて、ドバトの王は「メチカブー」と鳴いていた。どの本にもそんなことは書いていなかった。何度も確かめた。1年以上追った。

“ハトは「クルックー」や「クルッポー」と鳴くものであって、「メチカブー」などとは鳴かない”同じドバトの王を見たことがない人からは何度もそう話されたけれど、私は見た。聞いた。共有した。「ある」ものは「ある」。ドバトの王はよく太っていた。大切なことだから、私は何度でもこの話をする。



「すべての人は性欲に基づいて、指定された性別の相手と恋と呼ばれるものを行い、子供を産み育て、よい性質をもつ人に育てましょう。さもなければ恐ろしい目に遭う」(ハトはクルックー、もしくはクルッポーと鳴く)

そう書いてある本だけを信じる人は、そうでない人を見たときに「人はそんなふうに生きない」と話すだろう。そうではない人は「恐ろしい目」に遭うべきだとすら考えるだろう。自分から「恐ろしいもの」になったりもするだろう。ほかの幸福は本に書いていなかったから。信頼できる出版社から出ている本は、メチカブーと鳴くハトを描かないから。

私はドバトの声を聴いた。ドバトは私の声を聴くだろうか。



まずはじめに祈りがあった。
祈りは旋律や石や紙にうつされた。


電波が無数の神様を立てあっている。
人は祈りそのものにはなれない。


まずはじめに祈りがあった。
祈りは常に頭蓋を突き破ろうとする。
あなたは境界を渡ってわたしと会う。

外はある。私はあなたではないから。
息のできる領域はある。これもひとつの群だから。


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