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幸せは認識が9割
最近は寒さもやわらぎ、日中はトレンチコートが場違いに感じるくらい温かい日もある。
ところで、本当にこれは「温かい日」なのだろうか。温度計を見ればまだ「寒い」ことは明らかだ。
でもぼくはこれを「温かい」と認識する。いままでずっと寒い日が続いていたので、そこを基準に考えているからだ。
そう考えると、昔は大変だったとか、昔はつらかったとかいうのも、案外悪いことではなかったのかもしれない。それが基準になっていれば、たいていのささやかな幸せは、十分な幸せに感じられるだろう。
最近、瓶詰めのトマトペーストで、パスタの具を作れるようになった。
疲れたら、湯船にじっくりつかって身体を温めることもできるようになった。
過去数年間住んでいたシェアハウスには、自由に使えるキッチンも湯船もなかったので、キッチンと湯船が自由に使えるいまの(ありふれた)賃貸物件に引っ越してからは、こんな世間的にはふつう行為ですら、ぼくにはラグジュアリーな体験に感じられる。
昔からキッチンと風呂付きの賃貸に住んでいたら、おそらくそうは感じなかっただろうから、どうも幸せというのは、それを得ようと努力するものというよりは、実はすでにそこにある幸せをどれだけ認識できるか、という性質のものであるような気がするのだ。