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霊が見えなくなった理由

目の前には腐乱死体の亡霊がいた。強烈な死臭が鼻を突き、私は何度も吐き気をこらえながら、まともに相手を見ることすらできなかった。

水死体が近づいてくるだけで意識が遠のきそうになる。怖いというより、むしろ生理的な嫌悪感に支配され、身動きが取れなくなった。腐敗した肉の形状よりも、何よりも、この悪臭に耐えることができなかった。

そこで私は、嗅覚も視覚も極限まで麻痺させる方法を考えた。心の中で何度も何度も、「見えなくなれ、見えなくなれ」と呟く。

すると、さっきまで朽ち果てた皮膚や蠢く蛆まで克明に見えていた腐乱死体が、黒く薄い影のようにぼやけ、かろうじて人型と分かる程度にまで認識が曖昧になった。同時に、あれほど私を覆っていた悪臭も消えた。

私は影に向かい、爪でバラバラになるまで引き裂いた。

引き裂かれた残骸は、まるで無数の意思を持つかのように泣き叫び、助けを乞うていた。しかし、それでも敵意をむき出しにして睨み続けるものもいた。私はその残骸を爪で突き刺し、口元まで運び、ゆっくりと喰らっていった。

それぞれの肉片が独立した意思を持っているように感じた。おそらく、これは多くの人間の怨念が凝縮された存在なのだろう。当時の私に余裕があれば、命乞いをする残骸を残し、供養するという選択肢もあったかもしれない。

だが、当時の私は「供養」という概念すら知らなかった。目の前にあるのは戦うか、逃げるかの二択。相手が襲ってきた以上、私は命懸けで戦うしかなかった。

それは人間同士の喧嘩でも同じだった。戦意を喪失して降参した態度を示す相手に矛を収め、立ち去ろうと背中を向けた瞬間に襲ってくる奴と、私は実際に何度も戦った経験が有る。その油断で無用の傷を負った事もあった。これはスポーツではない。生きるか死ぬかの命を懸けた戦いだ。相手が霊だろうが人間だろうが、殺そうと襲ってくる相手に対してやるべきことは一つ。完全に仕留めること。

引き裂かれた残骸のうち、二、三体は天へ昇るように消えていった。だが、それ以外は全て私が飲み込んだ。噛み砕かれるまで泣き叫び、命乞いをする者もいたが、私は容赦しなかった。この場から逃げないなら、殺すしかない。

私の感覚では、相手を殺すということは、その存在を自分が背負い、代わりに生きていくことと同義だった。

私は過去に、人間相手の戦いで何度も似た経験をしていた。王のように威張り散らしていた人間を喧嘩で屈服させた途端、彼は急に筋肉が落ち、痩せ細り、まるで別人のようになった。一方、私は特に鍛えたわけでもないのに、まるで相手の力を吸収したかのように、身体が大きく筋肉が増強された。

私はこの現象を「ホルモンの作用」だと考えていた。喧嘩に勝ったボス猿はテストステロンが過剰に分泌され、肉体が強化される。逆に、負けた者はホルモンのバランスを崩し、力を失う。これは自然界の摂理に則った自然現象なのだと理解していた。

吸収し、自らの糧にする。

それが、生きるということだと感じていた。

もし自分が死んだら、私はきっと最悪の悪霊になるだろう。命を奪うことに何の躊躇もない。それを自然の摂理だと受け入れている自分こそが、悪鬼の化身なのではないかと考えていた。

悪霊と呼ばれる存在は、私と同じような人間なのかもしれないと感じてた。だが、実際に犬畜生にも劣る行いをする連中は、心が脆く、自分より弱い者にだけ威張り散らし、強い者には決して逆らえない。強者に対しては従順な犬のように低姿勢でへつらい、逆に、自分より力の劣る相手には絶対服従を強いる。そうすることが当然の権利だと、本能レベルで思い込んでいる奴ばかりを見てきた。

🪬

かつて、私の配下に一人の大馬鹿者がいた。

そいつは強そうな相手からは逃げ、自分より弱そうな者にだけ喧嘩をふっかける。にもかかわらず、自分を喧嘩の強者だと息巻き、周囲に誇示していた。だが、実際のところは弱い者いじめしかできない、惨めな存在だった。

それでも本人は、自分が卑劣な振る舞いをしていることに気づいていなかった。むしろ、自らを最強の英雄だと信じていた。そして、定期的に本人ですら理解できない自責の念に苛まれ、鬱のような状態に陥りながらも、必死に生きていた。

側から見れば、まさに下衆の極みとも言うべき男だったが、同時に憐れで可哀想な存在にも感じられた。

ある意味、私も似たようなものかもしれない。
因縁をつけて喧嘩を売ってくる相手には、「俺の頭を下げさせたいなら、力づくで下げさせてみろ」と啖呵を切ってきた。

私は心の中では渇望していた。自分が絶対に逆らえない存在に出会ってみたい。

世の中の偉人や成功者が、誰かに憧れ、その背中を追いかけて道を極めたという話を聞くことがある。だが、私にはそんな憧れの存在も、圧倒的な力を前にして膝を折るような経験もなかった。もしそんな存在に巡り合えたなら、私の人生は変わるのではないか。負けること、あるいは殺されることすらも、私にとっては貴重な体験になるのではないか?そんな希望にも似た願望を抱いていた。

もし私が正しく生きているのなら、人々の希望になれる。
もし間違った生き方をしているのなら、鬼畜外道の極み。

もしも神という存在が居るなら、私の事をどう評価するのだろうかと疑問に感じてた。本当に何度も美輪明宏が私を霊視したら、なんて言うのだろうか?と気になってた。

自分が正しいのか、それとも間違っているのか。そんなことすら分からないまま、ここまで生きてきた。

ただ一つ確信していたのは、この負けん気の強さこそが、強大な存在と戦う適性につながっているということ。私は何者も恐れない。相手が憎悪の化身であろうと、神であろうと、戦うことができる。諦め、屈服する事は絶対にない。不服従の精神を持っている。

だから、どんなに強い悪霊に呪われてる人でも、私は見捨てないし助けることが出来る。例え相手が神であっても戦う事ができると自負していた。

しかし、実際に呪われてる人間を前にすると、助けようなんて思えなかった。

どれほどの金を積まれようとも、恨まれて当然の行いをした人間を助けるつもりはない。憎しみに駆られた霊的な存在の気持ちが、痛いほど理解できるからだ。

私は百億積まれたとしても、金のために悪党を助けることはない。

私はやはり、お祓いをする側の人間ではなく、むしろ、呪い殺す側の存在なのかもしれない。そう思っていた。

それなのに…

そんな私ですら、“無償の愛” という存在に触発され、愛と平和を説く人生を歩むことになったのだ。

愛とは、なんと途方もない力を持つ概念なのだろう。

一定の力を持つ人間は誰もが報いを与える裁きを加える側に、自らの身を置こうとする。それは正義感なのかもしれないし、世の中を良くしたいとする平和を愛する気持ちの現れなのかもしれない。

でも、そんな裁きを与える側に立とうとする人間が大半を占める現世において、本当に大切で必要な存在。それは、裁きを、他者の望まれるままに受け入れる自己犠牲の精神。

望まれるままに吊られる人こそが、本当の尊い存在なのでは無いかと感じる。私自身がキリストのように、断罪されるような状況になった時に、自ら吊られる道を選べるか分からない。けれど、苦痛を受け入れる人をとても尊敬するし、そう言う人の役に立ちたいと心から思うのだ。

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