父の最期を看取らず仕事に戻った娘の話。
呼吸器科内科から緩和ケア病棟に転科した今日、
余命は持っても1週間ですと言われた。
末期の肺がんと診断され腎臓にも骨にも転移していて
延命治療すらももう施すことができない状態でした。
今日私は父の顔を見てもう一方通行でしか話ができないけれども、
今までのお礼を伝えて病室を後にし東京に戻りました。
あと数日しか呼吸をしていない父を見送ることと、
1週間近く仕事を不在にしていることと天秤にかけた。
そして私は娘でいる自分よりも経営者でいる自分を選んだ。
なぜなら会社のために働く私を父は誰よりも応援してくれていたから。
昔、家を建て替えようかと私が食事をしながら伝えたところ、
そんなお金があるなら社員のために使いなさいと即答された。
父の部屋のクローゼットには私が起業したときの名刺が10年経った今でも飾ってある。
20年以上前にいきつけのスナックに迎えにいった時に、
撮ったツーショットの写真が今でも飾られている。
私はその写真に撮って父の病室に持っていった。
長女としての責務果たすべきか新幹線の時間ギリギリまで悩んだが
私は予定通り新幹線に娘の手を引いて乗った。
私が不在でも回るようになってきた組織でも
どうしてもなければいけない現場がある。
そのために東京に戻る。
父が応援してくれていると信じて。
経営者であり、娘であり、母である、私。
でも圧倒的に優先度が高いのはネテモサメテモ会社のことを考えている、
経営者の脳なんだと改めて思い知った。
私に働き方を地元に残って父を支えてくれている、母や次女家族には本当に心から感謝している。
私がこの後できることやもうほとんどないけれど、
父を気持ちよく見送って欲しいと思っている。
会社を設立したのは父の誕生日。
昭和25年2月5日生まれの父。
平成25年2月5日に設立した真面目社を陰ながらずっと応援してくれてた。
そんな父と思い入れもある会社を経営し続ける。
そんな誓いをして、東京に戻ります。
追伸:2024年11月21日、1時40分永眠。