飛んだ女優
数年前、参加させてもらっていた友人の映画の女優が飛んだことがあった。
飛んだというか、見限られたに近かったかもしれない。もう出演しませんという丁寧な長文を送ってくれた。今までの稼働分のギャラもいりません、とのことだった。
悲しい出来事だった。その時は怒りと焦りでどうにかなりそうだっだが、今は美しい思い出になってしまっている。
いい女優さんだった。映画のことを大切に思っているのが端々から伝わってきた。だからこそ厳しい方で、私は内心震えていたけれど、好きだった。
今でも時々その女優さんのことをふと思い出す。 グラタンを食べている時や、養生テープを使っている時には特に。消えもののグラタンはキラキラした目で見つめていたし、天井から垂れてきた養生テープの端っこは、お茶目に口にくわえてスタッフたちに笑われていた。愛嬌とはこのことか、と知った日だった。
今どこで何をしているのか全く分からないけれど、その女優さんの言葉を、今も大事にしている。
「社会は、それぞれ異なるある2人の繋がりが無数にあるだけ」
本当にそうだと思う。私は色んな知り合いがいて、色んなコミュニティに属しているけれど、その一人一人、どれも関係性は違う。「友達」とか「恋人」とか「先輩後輩」とか、名前をつけてしまえば簡単だけれど、それぞれ少しずつ違っている。
それは、人によって態度を変えているとかそういう話ではなくて、「その2人の中に流れている時間は、今まで2人が歩んだものとか、考えとかをまとっていて、だから一つ一つ違うのは当たり前」という話だ。
同じサークルの友達でも、一緒に馬鹿騒ぎできる人、顔を合わせると喧嘩するけれどなんか仲良い人、真面目な話ばかりしちゃう人、色々いるじゃないですか。それを「友達」とまとめて言っているだけなわけで。
その一つ一つの関係は、他にない、唯一無二のものだとも思う。
「円周率は全ての数列を内包している。そのため数字で表せるものは結局既存のものの模倣にすぎない」と聞いたことがある。面白い考え方だし、私は一昔前はこの世に数値化できないものなどないと思っていたので、この世は全て模倣なのか、と常々考えていた。でも、そういう関係って、本当に数字に、ひいては言葉にできないところがあるな、と最近は思う。
そういう、ある2人の関係を大事にしたいなと、そういうものを作りたいなと、私はいつも考えています。
なぜ今頃そんな話をしているかというと、この前最近知り合った映画制作をしている友達に「なんで撮るのか」と聞かれて。
「どんなものを撮るのか」「忙しくないのか」は結構聞かれるけど、私がなにを思って撮るのかを気にしてくれた人は初めてだったから嬉しかった。映画を取り始めたきっかけについて話してしまったけれど、こういう、何を大事にしているかを話せばよかったと少し後悔している。
結局、その撮影では助監督をしていたけれど、私は現場に全く慣れていなかったし、まあアホなので、ノロノロしまくった。芸大から来てくれていた助っ人の照明さんに愚痴を言われていたことも、撮影の子に聞いて後から知った。私はそういう辛いことをいつまでも覚えていて、思い出しては傷つくタイプである。
ただ、私の助監督としての働きを「本当に助かった」と言ってくれた人もいた。しかも私はとんだその女優さんの代わりに準主演で出演までさせてもらい、その即席演技に対し「いい演技やん」と講師陣からお褒めの言葉ももらえちゃったりした。今はそういう嬉しい言葉こそ絶対に忘れないぞ、という思いだ。
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