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#01 文章を書くのは楽しい?


小学2、3年のころだったかなあ。国語の授業で「雨」という題で作文を書くことになりました。折しも外はしのつく雨。校庭のあちこちに茶色い水たまりができていました。

僕はその景色を眺めながら、雨、雨、雨……と考えを巡らせます。が、何も出てこない。やがて降る雨とシンクロするように、頭の中に乳白色の靄(もや)がかかり思考停止。雨を見つめる目も鉛筆を握った手も固まってしまいました。やがて耳がぽーっと熱くなり、眠気を催す始末。

好きなことを書くって どういうこと?

好きなことを書けばいい」。見かねた先生が僕に声を掛けてきた。

「好きなこと?」
「そう、長靴はいて水たまりをチャプチャプするとか好きでしょ、楽しいことを思い出してみよう」

雨が降って楽しいこと? 僕にとって、雨は憂鬱なものでしかなかったのです。

雨の日は薄ら寒いのに、レインコートを着ると蒸し暑いし、長靴は歩きにくい。長靴の上部がふくらはぎの下辺りをこすってヒリヒリする。傘が大きくて、それを支えると両手が塞がるし、傘は風に吹かれてあちこち勝手に動き回る。それを手で抑えるのはとても大変なのです。

しかも手にかかる雨が風にさらされて、とても冷える。それなのに「好きなこと」「楽しいこと」を書けばいい、と先生は言う。どう考えても、憂鬱な雨と楽しいことは結び付きません。

その憂鬱をどう表現していいのかもわからない。僕はますます混乱しました。結局、何もかけないまま時間が過ぎていきました。作文の時間こそが憂鬱の原因になったのです。

読まれたくなかった 読書感想文

何年生のころだったか。たった一度だけ、夏休みに書いた読書感想文がコンクールで賞を取ったことがありました。

しかし、まったく嬉しくなかったのです。僕は犬が大好きだったので『名犬ラッシー』を読んで感想文を書きました。ところが「それは課題図書ではないから」と、母に『アンクル・トムの小屋』を渡されました。

奴隷制度の歴史的背景も知らず、人を売り買いすることも理解できません。読むのが苦痛で、挿絵も怖くて、ただ息苦しさだけが残りました。ラッシーからは希望をもらえたけれど、トムからは深い絶望を与えられた。

「この感想文は人に読まれたくない」と思っていました。賞をもらったとき、先生も親も喜んでいましたが、僕はとてつもない間違いをしてしまったような気になりました。

だから、受賞を切っ掛けに作文を書くのが好きになったという展開には、なりませんでした。

本は読んでいたものの 文章を書くのはちょっと・・・

高校受験に失敗し、僕はまったくやる気をなくしました。これほど勉強をしない時期もありません。赤点の連続で先生に呼び出され「君はやればできるんだから」と諭されて「はい」と素直に答えはするけれど、面従腹背。勉強はまったくしない。

「誰だってやればできるでしょ」。そんな強がりは、そのうちやってもできない状態に陥り自己肯定感を奪ってしまったのだけれど。

ただ、本だけは読んでいた。マルキ・ド・サド、澁澤龍彦、寺山修司、唐十郎、つかこうへい…。青春という眩しく光ることばとはかけ離れたデカダン、世の中の裏側にうごめく熱量、自虐的に反転した世界というものに耽溺していきました。

そのほとんどは理解できません。そんな読解力はありませんでした。自己逃避の隠れ蓑として本を読んでいたにすぎないのです。

それでも、本を読んで気になったところを原稿用紙に写していたました。だからといって、文章を書くのが好きになったとか、文章がうまくなったとかというストーリーが用意されているわけではありません。

小学校の読書感想文で賞を取ってから、文章を書くという行為には、どこか後ろめたさがつきまとっていたのです

文章の書き方を教えてくれるプロがいない⁈


文章を書くのは難しい。ピアノだって、野球だって、ダンスだって最初は難しい。でも教えくれるプロがいる。たとえ上達しなくても、個人の趣味としてピアノや野球やダンスを楽しむことができる。

でも文章の場合は少し違います。文章の書き方を教えてくれるプロがいません。学校の先生は、作文にハナマルを付けたり、誤字を指摘してくれたりしたけれど、文章の書き方そのものを教えてくれたことはありませんでした。新聞記者になってからも書き方の研修はなく、先輩の書く原稿やデスクが直すものを見て「門前の小僧」で習得するしかないのです。

文章がうまく書けないことが妙にコンプレックスになって、それを楽しむことができない人が多いのも、そういうところに原因があるのではなかでしょうか。。「文章を書くのが趣味です」という人に会うことは、まずありません。

小学生から社会人にいたるときまで、文章の上手下手は読書量に比例するという経験値で語られることが多い。あながち間違いではないとしても、個人の経験値に頼り過ぎ、文章を書く苦手意識を醸成してはいないだろうか。そこには母国語を読んで話せれば、母国語で文章が書けるはずだという無意識の意識が根底にあるような気がしてならないのです。

文章を書くのが苦手だっていいじゃないか!

とはいうものの、こうすれば文章の苦手意識をなくせるとか、書くことが楽しくなるという決定的なノウハウはありません。

だから、文章を書くのが苦手でもいいじゃないか、という気持ちでいいと思うのです。
ただ、文章は自分の意思を伝える手段でもあるので、基本的なことだけ押さえておけばいいと思っているのです。

その基本を誰も教えてくれないのが、問題なのです。その基本を伝えたいと思って、これまで15〜16冊、文章や日本語についての本を出してきました。

これからは、自らの意見をプレゼンテーションしていく時代だと思うのです。そのためにも多くの人が、僕のように文章に対してのコンプレックスを持たなくてすむようになるといいなあ、と思っています。

ここでは、文章やことばについての考え方を綴っていこうと思っています。
うまく伝えられるかどうか。ぼそぼそと独り言を呟いていきます。

2024年2月28日


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