訳してみた:「巨人」とは一体何だったのか? 仏・元進撃ファンの考察
今回は『進撃の巨人』における「巨人」とは一体何だったのかという問いを深く掘り下げているフランス読者の考察動画「L'Ethique des Titans(巨人の倫理)」(2021/06/29発表)を訳出してみたい。
国内外の進撃考察漁りが趣味の私だけれども(どんな趣味や)、この考察者の方は動画を知るまで存じあげなかった。それもそのはず、通常はポップカルチャーをクィア(Queer)視点で語るチャンネルを作成している方のようで、進撃語りは物語が完結した今回が初とのこと。原作完結を機に作成した全四回の進撃語りになっていて、以下の訳はその考察シリーズの最終回にあたる。
考察シリーズの初回で彼の進撃との馴れ初めから別れまで、作品との関係について語っており、彼自身がかなりの進撃オタクだったことが明らかにされている(ちなみにジャン推しらしい)。多くの海外ファン同様、2013年のアニメ化で『進撃の巨人』を知り、作品との出会いを通じ自分のジェンダーへの気づき、パートナーとの出会い、チャンネル開設、そして色々な思いから数年前に進撃からは離れたとのこと。
物語の完結にあたり、昔の恋人とのゴタゴタ整理(?)のつもりで、最初で最後のこの考察シリーズの作成を決めた、と語っている。クィア(Queer)という性的マイノリティの視点からの読み取りが、『進撃の巨人』という作品の「芯を食う」とても興味深い内容になっている。彼の考察をより多くの人々に共有したいと思い、今回訳出にふみきったしだいである。
「巨人」とは一体なんだったのか?この問いから、彼が『進撃の巨人』をなぜこれほどまでに愛し、そして離れていったかの理由も見えてくる。長文かつヘビーな内容だが、是非最後まで読んでいただけると嬉しい。
【注意:この動画には、ストーリーの根幹に関わる壮大なネタバレがあります。ビギナーは回れ右でお願いします】
【注意2: 以下の考察はフランスの元・進撃ファンの最終話への「批判的」考察です。途中で作者諌山氏への政治的・歴史解釈視点への言及も入ります。真偽や価値判断抜きにそのまま訳出していますが、純粋にフィクションとして物語を楽しみたい方は以下の考察をご覧になることをおすすめしません】
【注意3:理解に必要な最低限の訳注を[]で入れています。見出し及び太字強調は全て訳出者であるNEKOが付記しました。動画内で紹介される諌山氏のインタビューは、確認できる限り出典を明記し原典をそのまま引用しました。出典確認のできなかったテキストは、フランス語訳をNEKOが日本語に訳しています。】
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Monsterとは何か? 〜人間と巨人の曖昧な境界線
先日僕は、ミネソタ大学出版局から出版された研究論文集『The Monster Theory Reader』を読みました。「モンスター」をめぐるアカデミックな研究論文が凝縮されているとても読み応えのある本です。今回の考察シリーズ最終回では、『進撃の巨人』における「巨人」というテーマの可能性、そしてその失敗について分析していきたいと思います。この分析にあたり、本書を参照軸に語らせてもらいます。
Monsterとは何か?本書の論文の中で、その大枠の定義として、次のような考え方が提示されています。「モンスター」とは、僕らの既知のカテゴリーを混乱させる、ゆえに嫌悪を引き起こす対象である、と。…シンプルに言えば、モンスターとは僕らにとって恐怖の対象です。そしてなぜ怖いのか?それは、彼らが異質な存在だからです。でも同時に、完全に僕らと異なる存在でもない。だからこそ怖い、気持ち悪い。モンスターとは、生と死、人間と動物といった、僕らの既存の認知カテゴリーを曖昧にする存在なんです。これはまさに『進撃の巨人』における「巨人」のあり方に一致します。
実際、巨人は実は人間だった、つまり、主人公たちが長い間殺してきたのは実は同胞である人類だったという衝撃的な事実が物語が進むにつれて明らかにされます。この倫理的大転換は漫画の中で非常に重要なものです。また、敵も、実は彼ら自身が軍事的な道具として利用されている犠牲者であった、という事実も明らかになっていきます。
Stephen T. Asma教授による論文「Monsters and Moral Imagination(モンスターと倫理的想像力)」によると、フィクションにおけるモンスターとは、倫理的問いを僕らに投げかけてくる存在である、とされます。フィクションの中で僕らは非日常の場面におかれ、「怪物のような敵」に出くわします。そこで僕らはどう行動すべきなのか、自分自身に問うことになるのです。諌山氏はこういった自問の場を物語中に何度も登場させている。ジャンをはじめとして、エレン・リヴァイ・エルヴィン・アルミン・ベルトルト・ライナー…それぞれの登場人物が、「敵」に対峙した際に、この倫理的問いに向き合っていく。そしてその度に、「正しい選択」の存在は否定され、非常にニュアンスを持った繊細さで、この問いは描かれていきます。
本書の最終章「The Promises of Monsters(モンスターの約束)」は、Donna Haraway教授の論文タイトルから取られています。この論文は・・すごく複雑です、、、!ただ、内容を要約すると、Haraway教授がこの論文でモンスター性を通じて提唱しているのは、僕らの生きている世界を構成する多種多様な声を持つ人々の多様性、他者性、そして互いの相互浸透性という概念です。同じ様に、Patricia MacCormack教授も、「Posthuman teratology(ポストヒューマニズム時代の奇形学)」という論文の中で、我々一人一人に内在する怪物性を指摘しています。「完全な人間」の定義に合致する人間は誰ひとりとしていない、我々の中には例外なく「モンスター」がいるのだ、と。
『進撃の巨人』の初期に登場するエピソードで、武器を失った若い女性兵士[イルゼ・ラングナー 特別編「イルゼの手帳」コミックス5巻所収]が一体の巨人に出くわします。遭遇時、巨人は彼女を殺そうとせず崇めるような振舞いをします。が、その次の瞬間、彼女は巨人に喰い殺されてしまう。人間と巨人の相互浸透性、両者の近接性が、一瞬だけですがしめされた瞬間でした。王政編では、人間が別の人間に対し酷い拷問を行いますが、ここで怪物のように振る舞うのは、今度は人間の側になる。巨人に魅了され彼らに名前を与え同胞のように接するハンジ、兵団の中に紛れ込んでいる敵の存在、諌山氏の人物描写(しばしばキャラクター達は巨人のような醜い造形になる)、『進撃の巨人』では、人間と巨人の境界線は非常に曖昧なものとして描かれているのです。
しかし諌山氏は、この巨人と人間の相互浸透性を、ひとつの人種「エルディア人」の特殊性に限定することで、大きく損なってしまいました。当初ファンの間では、巨人化するのはエルディア人だけという説は、彼らを支配しようとするマーレ人の都合のいい嘘で、実は全人類が巨人への変身能力を有しているのではないかという声もあがっていました。もしそうであったならば、人種といった古い議論ではなく、他者性をめぐるより発展的な展開となっていたのでしょう。「他者」とは、僕らにとって全くの異質な存在ではないからこそ、僕らに恐怖や嫌悪の感情を引き起こす存在なのですから。
『進撃の巨人』におけるジェンダー 〜性別の曖昧な境界線
物語の序盤では、ジェンダーの境界もとても曖昧なものとして描かれています。これは少年漫画ではとても珍しいことですが、男女で兵団の制服に差異はなく、諌山氏の描写では特に、男性/女性が明確に区分されないグレーゾーンに位置する世界観が描き出されます。彼はキャラクターのジェンダーやセクシュアリティーの表現を敢えてぼかすことを楽しんでいるようにさえ見えます。
[※以下中略 ハンジ、アルミン、リヴァイ、作者のライナー愛、百合ややおい表現についての語りです。面白いですが長くなるので訳出略]
しかし、ジェンダーのこういった曖昧さは、物語が進むにつれて薄れていきます。徐々に物語は父権制に、女性キャラは産む性へと回帰してしまうのです。登場人物達の唐突な恋愛描写にも、戸惑います。前回の考察動画で、僕はフロイト理論(慎重に扱わねばならない理論ではありますが)を用いてエレンの成長段階を「潜伏期」[※フロイトの発達段階理論のひとつ。性的欲動が精神活動の中心となる思春期の一つ前の段階、小学生位の年齢]に位置づけましたが、まさにこのエレンの成長段階はこの物語全体に当てはまります。実際のところ、これほどまでにセクシュアリティーが強調されていない少年漫画を、僕は読んだことがないです。作中で性表現に関する言及は非常に珍しく、例えばライナーの「もしくはこいつを 奴らのケツにブチ込む!! 」といった表現も、小さな子どもの笑い話のように扱われています。
このようなセクシュアリティーの空白はキャラクターの性別の境界線を曖昧にし、登場人物にクィア(Queer)性を読み取ることを可能にします。おそらくこういった描写は、諌山氏自身の性的な要素への関心の薄さにも起因しているのではないか、と僕は思っています。
父権的世界観に物語が回帰していくのと並行して、巨人と人間の間の相互浸透性も失われていきます。巨人についての新たな知識は、巨人と人間の間に徐々にヒエラルキーを築くものとなっていきます。巨人は人間だったという事実が登場人物達にショックをあたえるにもかかわらず、哀れな巨人たちは無情にも殺されていきます(コニーのお母さんを除いて。。)
「巨人」の源流 〜日本のオバケ妖怪/英国ゴシック・ロマンのモンスター/中世の巨人伝説
「巨人」というテーマに多くの可能性がひめられていました。諌山氏があまりに見事に(!)失敗してしまったのは、巨人を、駆逐すべき対象以外のものとして描ききれなかったという点にあると思います。
このことは、『進撃の巨人』が日本という文化土壌から生まれたという事実を否定するものではありません。日本的文脈における「モンスター」とは、我々が通常慣れ親しんでいる、いわゆるアメリカ的、アングロ・サクソン的文化土壌におけるそれとは全く異なります。日本の漫画に登場するお化けや怪獣は、しばしば倫理的に曖昧、場合によっては善き存在であったり、不思議で予測不可能な性質を持っています。諌山氏がこうした日本文化をバックグラウンドとして育ち、その作品に登場するモンスターが曖昧な性質をもっていることは明らかです。
しかし、彼自身も発言しているように、彼の作品は常に西洋文化からの強い影響を受けています。
日本のモンスターが攻撃的でない、というわけではないです。ただ、彼らは暴力性以外の別の何かを表している。僕が見る限り、日本的なモンスター(妖怪やおばけ、怪獣)はより人間的で愛情深い存在です。諌山氏の描く「巨人」は、日本的なモンスターよりもずっと、19世紀英国ゴシック・ロマンスに発する「モンスター」の概念に近いと思われます。
ゴシック・ロマンスから生まれた「モンスター」の概念は、19世紀英国の植民地政策と産業革命によるブルジョアジーの台頭という歴史背景の下に生まれました。ここで語られる「モンスター」は、"善きイギリス人"から外れる全ての他者、具体的に言えば、外国人、同性愛者、異人種、女性、…社会規範から外れるマイノリティを指していました。
「巨人」とは、フロイト理論を援用した前回の進撃考察動画で僕が言及しているように、抑圧されたもの、正当な規範から外れたもの全般を象徴しています。諌山氏は、巨人の着想源として、言葉の通じない酔っ払いをあげていますが、まさに巨人は、抑制から解き放たれ社会的規範を逸脱した存在、例えば『ジキル博士とハイド氏』に登場するハイド氏のような、英国ゴシックロマンに登場する「モンスター」そのものです。つまり巨人とは、僕らの中に隠され抑えこめられている全ての悪や恐怖の具象化なのです。
そしてまた「巨人」は、別のものとしても表象されていくことになります。諌山は作中、強制収容所に収容されたユダヤ人の状況を描く事で、非常に危ういアナロジーを用いてしまったと僕は思います。差別を受ける人々だけにこの「モンスター」性を直接結びつけ、その民族を収容区に閉じ込められるユダヤ人とパラレルに描いてしまった。同性愛者はバンパイア、黒人は突然変異種、ユダヤは巨人、だから危険なのでしょうか・・・??そんなのデタラメな大嘘です!
作者が直接知っていたのか、または間接的にインスピレーションを受けたのかは不明ですが、「巨人」は、ヨーロッパ中世社会における反ユダヤ主義を明確に想起させます。
Bettina Bildhauer教授は、「Blood, Jews and Monsters in Medieval Culture(中世文化における、血・ユダヤ人・モンスター)」という論文の中で、中世の世界地図に登場する巨人ゴグとマゴグの伝説を紹介しています。人喰い巨人であるゴグとマゴグは、アレクサンダー大王によって高い壁の中に閉じ込められます。もちろんこれは中世の巨人伝説ですが、19世紀のゴシックロマンにおけるモンスターと同様、人喰い巨人には、売春婦や死刑執行人、そして…ユダヤ人といった、当時の社会規範から外れる全ての「よそ者たち」が象徴されていました。
ダビデの星の腕章をつけて収容区に閉じ込められるエルディア人が壁に閉じ込められたゴグとマゴグの中世の巨人伝説を想起させる一方で、「巨人」は社会のあらゆるところに人間の姿をして紛れ込んでいるという「ユダヤ陰謀論」をも想わせる…、場合によっては、反ユダヤ主義とも捉えられかねない、非常に危険な記号化であると言えるでしょう。
しかも『進撃の巨人』では、エルディア人は同時にファシズムとも親和性のあるかたちで表象されます。これは、マーレによるエルディア迫害を正当化する危険な相対主義をも導きかねない。逆にマーレをナチス側、エルディアをユダヤ側として捉えることの問題性も明らかです[この辺りの危うさは概要欄リンクにあるこちらの記事参照]。
ただいずれにせよ、ナチ/ユダヤの記号的表象の知識がなくても、問題ない、、のかもしれません。最終的に『進撃の巨人』は「何とでもとれる」結末となるからですから…。。
僕らの物語を語ろう、過ちを繰り返さないために過去の過ちから学ぼう、でも他民族を支配した過去の重荷を背負う必要はない、復讐はいけない、殺人はいけない、でも手を汚さずに平和は来ない、結局みんな殺人者でありモンスターである、だからお互い理解し合えるはずだ、平和な世界を築くためには僕らはモンスターにならねばならない、でも結局その先に平和は・・・こなかった!!そして戦いの歴史はつづく・・!!
僕は『進撃の巨人』の読み解きにあたり、この漫画に対して過度な信頼をおきすぎていたのかもしれません。諌山氏は以前、彼のものとされるTwitterのアカウント上で過去の日本の帝国主義を讃え、歴史修正主義的発言をしたとされています。また、韓国併合時に血なまぐさい殺戮の責任者であった軍人を、温厚で感じの良いキャラクターのモデルとしている事実もあります…[※ピクシス司令のモデルが明治期の日本軍人 秋山好古であることを指します。過去のTwitter上での発言はこちらの英語サイトが参照元になっています。真偽は不明]。
『進撃の巨人』の最終章では、巨人の脅威は完全に取り除かれます。エレンの犠牲、エレンによって成し遂げられた「必要な」大量殺戮は人々に暖かく受け入れられます。この結末、最初から決まっていたものだったのでしょうか?全ては巨人の消滅という括弧つきの「ハッピーエンド」へ向かうための単なる道程でしかなかったのでしょうか?そこに僕が、勝手なニュアンスを深読みしていただけなのでしょうか…?
「巨人」の消滅した世界
「An introduction to the american horror film (アメリカ・ホラー映画への序論)」という論文の中で、Robin Wood教授は次のように主張しています。ホラー映画の中でのモンスターの描かれ方で、その作品が進歩的な傾向か反動的な傾向にあるかが大まかに判断できる、ホラー映画に登場するモンスターが単に有害で邪悪なもの、同情を一切受け付けないものとして描かれている場合、その映画は概ね反動的な傾向にある、と判断できるのだそうです。
『進撃の巨人』で、巨人は常に曖昧な存在として描かれきましたが、物語の最後、彼らは結局人類に迎えいれられることはありませんでした。人類は、巨人を、そして巨人が象徴する他者性を、知ろうとも理解をしようともしませんでした。彼らを拷問し、殺人兵器として利用し、良心の呵責なく彼らを駆逐した。彼らの存在を完全に消し去ってしまった。もし巨人が単純に暴力性のみを象徴するのであったならば、一貫性のある結末であったでしょう。しかし『進撃の巨人』における巨人は、それ以上の複雑さを内包した存在でした。巨人とは、我々が消し去ろうとする過去の過ちであり、我々の内に存在する他者であり、そしてひとつの民族の特殊性でした。その特殊性を"世界"に順応させるために消し去ったのです。この結末に、僕は到底納得ができません。
『進撃の巨人』がしばしば左右全く相反する政治主張をもつ人々に受容され得るのは、物語に登場する記号が非常に多義的だからです。保守的記号表現が散りばめられる一方で、軍事的ヒエラルキーや政治権力の欺瞞に対する批判、巨人によって表される他者との相互浸透性も描きこまれてきました。しかし、破壊者としてアンチ・ヒーローの道を辿ってきたエレンの大量虐殺は、最終話の数コマによっていとも簡単に正当化され、彼はイデオロギー的勝者となり物語は幕を閉じます。諌山はこれまで僕が作品に読み取ってきた繊細なニュアンスを、根底から覆してしまいました。僕の受け取ってきたものは全て、幻想だったのかとさえ思っています。
ずっと自問しているんです。この結末は諌山自身の頭の中に最初からあったものなのか?僕らが作品に感じ取ってきた繊細なニュアンスや既存のステレオタイプへの反駁は、単に彼の筆が滑ったきまぐれに過ぎなかったのか…?ただ、ネット上にリークされている作者インタビューを読む限り[※別冊マガジン2021年6月号掲載の作者インタビュー]、このラストはもともと作者の意図していたものではなかったようです。アルミンはエレンの行動に同意してはいなかった。アルミンがエレンの殺戮行為を容認しているように読めたとすれば、それは作者自身の表現力不足だった、と諌山は語っています。
諌山はラストに手を加えたとも発言していますし、最後まで自分の思い描くラストに向かっているとも話しています。何が真実で、どこまでが事前に決められていた結末だったのか、僕には判断できません。しかし彼の様々な発言を読むに、諌山自身は読者の相反する期待を理解しようと、必死にもがいていたことがわかります。結果としてその結末が、読者の期待に応えるものになるとしても、逆を行くことになるとしても。
作者個人がおそらく保守思想に共感していたということは事実です。それでも僕は思うのです。「巨人たちの攻撃」(『進撃の巨人』仏語タイトル『L'Attaque des Titins』の直訳)を受ける、受け入れるということは、作品そのものにとって非常に重要な意味を持っていたのだと。
皮肉なのが、諌山自身に『ゲーム・オブ・スローンズ』のラストの影響が影を落としているということです。ご存知の通り多くの議論を呼んだ最後でしたし、多くのファン同様、僕もあのラストには非常にがっかりしました。諌山、残念です。悲劇は繰り返されてしまったようです…。
TumblrにポストされたClem McCarthyの言葉で、この考察シリーズを締めくくりたいと思います。彼女は自身のブログで、とても丁寧に『進撃の巨人』の最終章を考察しています。この動画の概要欄にページのリンクを貼っておきますので、詳細の気になる方はご覧ください(残念ながらテキストは英語のみです!)
さて、これから僕らは何をしたらいいのか…?
FIN
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大切に読んできた進撃の巨人のコミックスを段ボールにしまう動画のラストがなんとも切ない。
最後に、訳出者であるNEKOから一言だけ。Docteur Pralinusの「巨人」の可能性の指摘は非常に示唆に富むものであると思うのと同時に、私自身は、最後の彼の理解「進撃世界から巨人は消滅した」には若干ハテナをもっている。その部分は、最後とても曖昧に描かれていると思うからだ。
進撃最終話のネームで、一番に気になった部分がここ、大きなバツで消されたリヴァイ兵長の言葉(下記太字)である。
ネームに書かれていたリヴァイの「巨人は・・・絶滅した」は単行本では消され、「見ていてくれたか?これが結末らしい」だけになっている。これはおそらく、物語初期の彼の誓い(「約束しよう俺は必ず巨人を絶滅させる」)の回収を試みたセリフだったと思うのだが、やはり作者は最後の最後で大きなバツマークをつけてこのセリフを消している。このことは何を意味するのか?
私が思うに、巨人が絶滅したかどうかは、最後曖昧に、いやむしろ、かなりネガ寄りに描かれている。というのも、最終話ラスト数ページのセリフのない情景で示唆されているのは、エレンの行為で一時的に「巨人のいない世界」にはなったものの、実は、そうではなかった…?という、衝撃的な世界線だからだ。大樹の洞に向かって進む少年の最終コマは、子ども&大樹&空という本来明るい未来を表象する記号の組み合わせであるはずなのに、画面全体には不気味な不穏さや不安感が漂う。それは、これまで進撃を読んできた読者に明らかな通り、二千年以上前も同じように一人の少女が大樹に歩みよるシーンが重なるからだ…
とても微妙なニュアンスだが、作者諌山氏が、「巨人を駆逐する」ことにしか答えを見出せなかった主人公エレンを、「イデオロギー的勝者」として物語を閉じていない…そのことの証左が、映画のエンドロールのようなこの静かなラスト数ページでポエティックに、描きだされていると私は思う。
いずれの解釈にせよ「巨人」とはなんだったのか、「巨人」は最後本当にこの世界から消滅したのか、『進撃の巨人』という物語を読み解く上で、非常に重要なキーポイントの一つであることは間違いないだろう。
Docteur Pralinus(ドクター・プラリヌス)のYoutubeチャンネルはこちら。ご興味のある方はぜひのぞいてみてください。