記憶は人の都合で変わるから、だから書いて残したいと思った。ーその1ー
記憶なんていうのは曖昧で人間の都合よく作り変えられていくものである。
特に僕は自分の中に壮大なファンタジーの世界を築き上げているのもあって現実に体験したこと、ファンタジーの世界で体験したこと、夢の世界で体験したこと、とどうやら3つの世界で物事を体験するらしい。
だから実際に起こったことと齟齬があることがあるかもしれないな・・・
なんてことを思った。
僕の体験と先生の体験に齟齬があったから、だから起きたことを忘れないうちにちゃんと書いておきたいと思う。
2020年9月2日(水)
9月2日。
待ち望んだ日がやってきた。
亡くなった友人(Mという)を長く診続けてくださっていた先生とひょんなことからお会いすることになった。
そのひょんなこととは僕がお手紙を書いたことから始まったのだけど。
というのも、ものすごく久しぶりに2018年の日記を読み返していたところ、その先生が「Mちゃんとまいとくんは一緒に山も登れれば谷底にも落ちることができる。そんな仲だったんだからつらくて当然だよ。まいとくんが今感じているのは生き残ってしまっているという罪悪感じゃないの?感じなくていいんだよ。Mちゃんがあなたのことを責めていると思う?」とおっしゃってくださったことを日記に書き残していて、それを読んだ時になんだか肩の荷が降りたから感謝の気持ちを伝えたくなりペンをとったのだ。
と言っても文字を書くことは少し不自由なので今時の子っぽくワードで書いた。そこは許してもらいたい。
虐待どっとネットの名刺も添えて送ったら、メールでお返事をくださって、お会いすることになった。
こんなことある!?と何度画面に向かって呟いたか。
当日まで何度も画面を見てニヤニヤした。
だけどちょっと胸がチクンともした。
だって、僕はずっとこの先生に診てもらいたかったから。
ーそう。診てもらいたかった。
亡くなった友人、Mとのご縁は遡ること16年前。
最初は本当に遠くから見ていただけ。
私語も禁止だったし日中は机を壁に向けて反省文じゃないけれどそんな文章みたいな今後どうしていきたいか、どうしていくかみたいな文章をずっと書いていたし、あの頃の自分は誰とも話す気力も残っていなければ、なんかもうなんというか何もかもどうでもよかったから他人なんて本当にもうどうでもよかった。
それから僕は病院で過ごすことになるんだけれど、しばらくしてからやってきたんだ。Mが。
出会いはまあ印象的で観葉植物の葉っぱをちぎって自販機のお金を入れるところに入れてたんだよね。
「何やってるん?」って聞いたら「あ、これでジュース出てくるかなって思って」ってなんかもうすごく面白かった。
お気に入りの当直の先生がいて、先生が当直の日は9時くらいに病棟に来るのでその時間帯に救急の入院がなければこっそり夜一緒に遊んでくれてたんだけどMが「せんせー電話壊したい」って言ったら「いいよー内緒やでー」と言って診察室の内線電話を投げさせてくれて翌朝先生がクッソ怒られたこともあった。w
僕が先に退院することになったんだけど、その後悲しくも出禁になってしまい、それを機にMとも連絡を取らなくなってしまった。
そしてもう誰にも頼らない、1人で生きていくんだ。だって結局みんな僕に関わるのは仕事だし!とそんな気持ちで孤立無援で生きていた時にやたらめったら公衆電話から着信がきた。
Mだった。
「まいと、たすけて」
閉鎖病棟に入院したことがある人ならわかると思うんだけど、外部との連絡手段が公衆電話か手紙しかない。
なぜかMはいつもぼくに助けを求めてくる。
なんでやねんと思いつつ、放っておけなかった。
きっとぼくはMに過去の自分を投影していた部分が少なからずある。
この子だけはなんとかせねばじゃないけれど、この手を離したら今にも消えてしまいそうで、だけどぼくは人を1人背負えるような人間でないことはよくわかっていたので、できることはできるといい、それは俺にはできないから先生に言ってと言い、細く長く繋がっていた。
とはいえかかってくる電話といえば
「まいとにはお世話になったと思って・・・」
という今からなにかやらかそうとしている電話なのでだいたい飛んでいくハメになる。
この電話がかかってきた直後に飛び降りもしくは練炭をやったことがあるので、それ以降はもうマジで信頼できる大人を連れて飛んでいくようにしてた。
この電話がかかってきていたことをありがたく思わなきゃダメだった。
とある方法でやった後に助かった時、
「次は絶対失敗せーへん。もうわかったから」
と電話で話したのが最後に交わした会話になってしまった。
その時ぼくは難病が発覚し、きっとまた大丈夫だろうと思って
「ごめん、今しんどくて」
と言ってしまった。
確かその電話は3月の4日くらいだったと思う。
それから何日経ったかな。
夜中にふと気になって「生きてる?」って連絡を入れたら翌朝にお母さんから「連絡ありがとう。昨日M、亡くなりました。友達でいてくれてありがとう」とメールがきたの。
ーやってもーた。
寝ている彼女を叩き起こした
「どうしよう。M死んだ。死んでもうた。」
「え?嘘やろ?」
「ほんま。これ見て。」
「うわーーーーーーーー。。。」
彼女もMのことをぼくの本当の妹のようにかわいがってくれた。
一緒にごはんを食べたり、お化粧品をあげたり、
「これMちゃんに似合うと思ってんけど」とか言って、プレゼントを買ってきてくれたりした。
ぼくはそれが本当の家族みたいで本当に嬉しかった。
出会って10年経った日の夜
出会って10年経った日、はじめてお互いがどういう経緯を経て今に至ったのかという話をしたことがあった。
それまではぼくも触れられたくないし、きっと向こうも触れられたくないだろうから、そっと手を取り合うだけの関係だった。
その日の彼女のブログがこれだ。
この中に出てくる「ひかり」というのがぼくが今運営している「虐待どっとネット」にあたるもの。
ぼくたちはずっと居場所がほしかった。
安心していられる居場所。そこに居ても良い場所。
「僕たちはそれぞれ別の治療機関で治療してきたからサポーターがたくさんいるよね。その人たちってみんな味方だから、その人たちを全員巻き込めたらやさしい世の中が作れると思わない?それで作ろうよ。僕たちが欲しかった居場所ってやつを」
「ひかりって名前でやりたい。希望のひかり。みんなひかりだから。」
10年間必死で生き抜いてきたから、そんな話をできたことが嬉しかった。
ぼくは虐待どっとネットでサバイバーが気軽に集うカフェを作りたいと思ってる。
そこの名前はきっとひかり。
そこに集うサバイバーはみんな希望のひかりだから。
トラブル続きの墓(寺)参り
ずいぶんと回想してしまった。
もう少し回想はつづく。
9月2日(水)
ついにMの主治医だった先生とお会いする時がやってきた。
ぼくが大学に入ってからはじめてMの家に行ったとき、Mは先生との出会いを詳細に語ってくれた。
救急で入院した先で出会ったこと、それからずっと診続けてもらっていること、まいとも診てもらいよー!となぜかぼくにも勧めてきたこと。
ぼくは医療になんて頼るものかと肩肘突っ張っていたら目の前で電話し始めたのでちょっと焦った。
「あー、もしもし先生?今から行っていい?」
えええ!?そんなことある!?!!!
「いいって。行こー!」
もう、色々衝撃だった。
この時の記憶がなかったんだけど先生とお会いしたときに付き添いで来た人がぼくだったらしいので、きっとこの時のことだと思った。
ぼくの中で先生の診察をはじめて受けたのは、ぼくが自殺未遂をしたあと、Mが入院していたときに受診に行ったときだと思っていたんだけどどうやら違ったっぽい。
ほんと、自分の記憶はアテにならないと思った。
まったく記憶にないけれど、付き添いで行ったとき、先生は2人を抱えることはできないとぼくに伝えたらしい。
お会いしたときに教えてくれた。
きっとぼくはずっと羨ましかったんだと思った。
ぼくも誰かに助けてほしかった。
ずっとずっと助けてほしかった。
「あなたはかしこいから」
「君は頭がいい」
そう言っていつも後回しにされてしまう。
ほんとはかしこくなんてないのに。
心の中ではちきれそうな思いをいつも抱えているのに、周りからは平気に見えてしまうようで、誰にもそんな思いを伝えることはできなかった。
先生とはいろんなことをおはなしした。
今日に至るまで、虐待どっとネットに対する思い、Mが亡くなったときのこと、日が暮れるまで時間を共有してくださった。
ーこれだ。
虐待どっとネットが目指す"おともだち"のかたち。
見えた気がした。
それでも自分の中にドス黒い気持ちが渦巻いていることに気がついた。
羨ましい気持ちと同胞葛藤
帰宅後、ありえないくらい涙が出てきた。
僕はずっとMが羨ましかったんだ…ぼくも24時間365日抱えてくださる先生に出会いたかった…なのになんで死んじゃったの…?生きててほしかったよ…なんで、なんで、なんで…
もうダメだった。十数年分、フタをしていたところが開いた。
そんな自分がとても愚かで情けなくて恥ずかしくてもう抱えきれなくて翌日病院に電話した。
通院先は週1しか先生がいない。受付の方が「調子わるい?連絡付き次第、心理士さんから電話してもらいましょう。ちょっと待ってて」と言ってくださり、秒で心理士さんから電話がかかってきた。
電話でおもいっきり泣いた。
せんせいは
「そっかそっかー、うんうんー、よしよしー、」とひたすら肯定してくれた。
そして
「同胞葛藤という言葉がね、あるんですよ」
と言って血が繋がっていないとはいえ、兄妹のように育ってきたのだから何もおかしいことではないと言ってくれた。
それでもまだぼくの中にはうらやましいさんに、さみしいさん、怒りさんなど、様々な感情が顔を出した。
だけど出てくるべくして出てきたんだとも思えた。
先生に会わせてあげれてよかった
亡くなって4年になる。
先生と一緒にお寺に行って今回はじめてMと先生を会わせてあげられた。
実は行くまでにいろんなことがあった。まず、電車が止まった。向かいのホームに人が落ちた。
「お医者さんはいませんか?」に遭遇したのである。
先生が「ん?お医者さんいませんかって言ってる?」と言い、小走りで向かい側のホームに飛んでいった。
なかなか帰ってこず、非常ブザーの音がけたたましく鳴り怖くなってきたので僕も移動すると先生がホームに降りて救助活動していた。超かっこよかった。
そしてなんとかお寺までついたら今度はなんとお寺のシステムが壊れていて2時間後でないと復旧しないと。こんなことは滅多にないのですが…と住職さんもタジタジだった。
せっかく来たから…ということで待たせてもらうことにした。
Mの中にいてる子が大好きだったかっぱえびせんとオレンジジュースを持っていき、先生と一緒に食べた。
そしてようやく、お参りができて。
Mが眠るお寺は最新のシステムでカード式でタッチすると遺骨が運ばれてきて、写真が自動で流れる。先生とMの写真を見ながら思い出話をして笑った。
Mは先生が来るのを拒否ってるんやなーなんて思ったけど、会わせてあげられてよかったなと思った。きっとMが1番会いたかったのは先生だったと思うから。
やっぱりぼくにとっては唯一の家族で今も1番大切な人。
大事で大切で、一緒に生きていたかった人。
それでもいつもがんばっていたことを知っていたから、お疲れ様としか言えなかった。
ぼくはもう2度とMや自分と同じような思いをする人が世の中からいなくなるような社会をつくる1人でありたいと思う。
遺された者として、どうして自分だけが生き残ってしまっているのかとかいろいろと考えることはたくさんあったけれど、これからも僕の中で一緒に生き続けていけたらいいなと思う。永遠に大切な人であることは変わらない。
診てもらいたかった、あのとき
あれから僕は先生と定期的にお食事にでかけたり、やりとりを続けている。
たいせつなたいせつなおともだち。
これを見るとMはきっとうらやましがるだろうな。
どうだ、うらやましいだろ。生きてたら、きっとMもこうなれてたぞ。えっへん。
なんて、ちょっとしょっぱい汗が流れちゃう。
当時の僕は純粋にMが羨ましかった。
まわりに頼れる大人がいないなかで、Mと先生の抱えるー抱えられるの関係性がうらやましかった。
本来であれば、親が担うはずであるその役割。
それを得られなかった僕は、これから先も永遠にその関係性は得られない。自分で自分を育てることしかできないことはとっくの昔から理解はしているし、育ちの中で親から与えられなかったものは、すでに大勢の方から違う形でいただいてきた。
歴史上の人物で何らかの結果を残している人々はたしかに何か欠けている人物も多い。
何も残せなくてもいいから、人間が当たり前に得る愛情を幼少期から得たかった。
おいしいものを食べたときに「おいしいね」と語りかけてくれる人。
泣いているときに「悲しいね」と抱きしめてくれる人。
そうやって人は感情を学んでいく。幼少期からそれを学ぶことができていたら、きっと思春期に精神病院で暮らすこともなかっただろうなと思う。
だけど、得られなかったからこそ、得れたことが今の自分を作っていることだけは確かで、それがどんなに大きな心の財産なのかと考えると、天秤には測れない。
結果的に、生き抜けてこれてよかった。
これからも、僕は僕を生きていく。
もう誰も自分のような子どもがいなくなる社会を目指して。