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愛着障害と嘘
「あんな、今日な、〇〇でな、〇〇がな、〇〇でな」
これはほんとうなのか、嘘なのか、はたまたファンタジーなのか、当時まわりにいた大人たちはさぞかし困ったことだろう。
自分の中ではつくり話っていうわけでもなく、”事実”として存在していたんだけれども、まわりから見るとそれは"嘘"の話になるらしい。
小さい頃、よく妖精さんと遊んでた。
学校の帰り道
電車が走る横を通って帰っていたときにフウセンカズラの周りをくるくる走り回る妖精さん、少しアップダウンのある坂道を走って登り切ったところに突如現れるスーパーマリオのドッスンのような顔をした岩の上で足を組む小さいおねえさん。
その人たちと遊びながら帰るのは、学校で怒られ、家には帰りたくない僕の安らぎのひとときだった。
さて、タイトルにもあるように今日は愛着障害と嘘というタイトルで書いていきたいと思う。
ぶっちゃけこのタイトルで書くのはとても勇気が必要だ。怖さすらある。
でも、ここを開示できる当事者はなかなかいないと思うからしっかり書いておきたいと思う。
僕は幼少期、どうでもいい嘘をよくついた。
たぶん、幼稚園の頃からもうすでに嘘をついていたんじゃないかな。
親族一同、僕のことを
「こいつは本当にずる賢い」
「誰の子や」
「こんな子はうちの子(家系の子)じゃない」
となんしかもう怒られまくっていたんだよね。
なんで嘘をついてたのかってことはわからないけど本当に我が家はちょっとしたことで怒号が飛び交う家なので常に緊張状態にあったんだと思う。
とある新興宗教の家で、母方は在日韓国人の家系でもあり、3歳くらいまではたぶん祖父の法事も韓国系のお祈りのやり方だったように記憶している。
数字の数え方とか、平仮名とか、5〜6歳頃までに詰め込まれたハングルの類はまだ今も覚えてる。
そしてそんな家庭に生まれた僕は
「韓国人であることを言ってはいけない」
と育てられた。
「なんで言っちゃいけないの?ここ日本で日本語しか話してないのにどうして韓国人なの?なんで韓国で暮らさないの?」
って聞いたらボッコボコにされた。笑
その割に家族たちは
「誇りを持っている」
とか言うので
「誇りを持っているならどうして隠すの?隠すってことは誇れていないってことじゃないの?」
なんてことを言う子どもだったから、これまたボッコボコにされてしまうという悪循環だった。
それでも子供心に、なんとなく言ってはいけないんだなということは理解できたので隠すことになる。
隠さなければいけない出来事が山程あったので、とっさに口から出まかせが出てしまう癖がついてしまった。
するとどうなるか。
人は簡単に嘘つきになるのだ。
だけど嘘をついていることには自分で自覚があった。
罪悪感もあった。
自分は何者なのか。アイデンティティが失われていく。
そして自分には幼少の頃から解離があったので本当のことを言っても信じてもらえない。
この絶望感は簡単に自分というものを失っていった。
アイデンティティの形成に多大な影響を及ぼしたと感じている。
2014年にトラウマ治療をしていたとき、先生に言ったことがある。
「僕はうそつきなんだ。だから悪い子なんだ。」
そしたら先生は
「あのね。子どもの頃につく嘘というのはまわりの大人が悪いんだよ。だからあなたは悪くない。あなたは悪い子じゃないよ。あなたは嘘つきじゃない。」
目から鱗だった。
驚くくらい泣いた。
嘘をつきたくない。誠実に行きたい。
嘘をつかずに生きていくためにはDIDであることを隠さないことだと思った。
記憶の欠落を正直に言える環境を作ることだと思った。
自分たちで記憶の共有の努力をすることだと思った。
僕はファンタジーの世界を持っていて話を盛る癖もあるので、それを理解しといてもらうことだと思った。
昔よりは少しずつ少しずつ、自分らしく生きれていると思う。
昨日より今日、今日より明日。一歩一歩進みたい。それが虐待の後遺症と生きるということ。