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【テニプリ怪文書】プロ倫、溺愛と支配、平徳新刊の話

こんにちは。お元気ですか。ぽこです。
渋谷に遊びに行ったらあまりの情報の多さに神経が尖りきってしまい、怪文書を書きました。

みなさん…溺愛シチュ、お好きですか。私は…どうかな。

以下の文章は2024年10月新刊の平等院×徳川の同人誌『死んでも倒したい日本代表No.1に溺愛されています‼』の話も絡みます。絡むのかな。
新刊サンプル以上のネタバレは無いと思います。
自分で自分の話を解説するのはマジックのネタばらしみたいで格好悪いので、
解説っていうよりは込めた執念の話と、読む前の人に丁寧な注意書きみたいなのをしています。

新刊サンプル(R18です)

ごめん。
この文章、正直自分でも謎なうえに脈絡が微妙になくてつまんないかもです…。


『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』とテニスの王子様のスポ根

プロ倫についての詳細は各自ググろう…と言いたかったんだけど、色々なんか…どうしよう…と思って、頑張って探した結果、これを貼ります。

あとはジャパンナレッジを貼ろう。

テニスの王子様たちは、絶えず努力をしています。
程度の差はあれストイックな子ばかりいる。
そして物語にはテニスを愛する・テニスに愛されるというテーマもあります。
彼らはまるでテニスが自らの使命かのように、テニスをします。
テニスとは彼らの世界そのものです。
そして勝利を求めます。勝ちたい。強くなりたい。
あとついでに裕福なお家が多いですし、多くのキャラが彼女も作らず禁欲的です。

私がしたいのはマックス・ヴェーバーが正しいとか正しくないとかキリスト教圏でもないのに社畜精神はびこる日本ではどうとかの話ではないです。(※そんなことは私にはわかりません)

ただ、テニスの王子様たちのスポ根努力の精神に私は勝手にプロ倫的なアレを感じております。

誰より信じてるそれはテニスだろ なすべきことそれはテニスだろ

なぜ努力をするのか。報われるからではないのです。
報われなくても努力はするのです。
天国に行けるから、勝てるから、努力をするのではないのです。
神(テニス・世界・作品)の栄光をあらわすため、信仰のため、テニスが彼らに召された使命だからするのです。
彼らにとってはテニスは神から与えられたなすべきことだから。Beruf(天命、使命、天職)だから。
結果はあとからついてきます。勝利と豊かさです。
まあついてこないこともありますが、それは神様や作者が元から決めていたことなので彼らは納得するしかないのです。ここ予定説かも。


ここまで書いてきてだいぶキマってきた感じがします。

キマったまま話を溺愛に戻します。

溺愛されたい・されたくない

努力もしないで、甘やかされて、幸せになって、すべて満たされて、何も考えられなくなりたい。
はい、本当にそうですよね。まことに。
疲れているときほど。重荷を負うているときほど。
私は人間にってよりは宇宙とか神とかからそうなりたいです。高次元に行きたい。

ただ、私の倫理の部分がそれを拒否します。
そこに人権はあるのかい。そこに私はいるのかい。自由意志ってあると思うかい。
あとまあ、私は勤勉ではないですけど、努力もせずに手に入れるものって…みたいな罪悪感がある。奴隷ですね〜。

溺愛する側はわりと楽しいと思います。相手を愛で支配できるので。
あと愛に支配されるのもわりと楽しいと思います。
今わりとテニプリから愛によって支配されてますがなかなか楽しいことも多いです。
努力もしてない単なるオタクなのにテニプリは私を愛してくれている。恩寵。(グルグル目)
フォーステ楽しかったな。

ただ、こっちも人間なので個がある。
そう思って新刊を描いたりしました。

新刊『死んでも倒したい日本代表No.1に溺愛されています!!』の話…ではない気がする

世間の欲望・自分の欲望としての溺愛概念、禁欲と努力、プロテスタンティズムの倫理(ひときわカルヴィニズム)、その資本主義文化下において生まれたロマンチックラブだけが持つとされる愛の聖性、その先にある神に祝福された真実の幸せ。

そんなもんぜ〜〜〜〜〜んぶめちゃくちゃにしてやる!!!!!という気持ちで描きました。

お話では準決勝でドイツに負けるIFストーリーを描いています。
そういえばマルティン・ルターもマックス・ヴェーバーもドイツやね。

U-17W杯って2年ごとの開催なので(※諸説ある)平等院も徳川もたぶんもうU-17日本代表としては終わりなんですよね。たぶん。

プロとかこの先もあるんだと思いますが、とりあえず一旦のところテニスを失った二人が、
デュークでも鬼でも入江でもリョーマでも他のさまざまなキャラでもなく、
他の誰でもない平等院と徳川が、溺愛という支配-被支配(支配-服従?)の関係で繋がってゆく。

それに関しては原作での二人の試合から、「溺愛」やれるな〜と思ったのでした。
しかしここにあるのは溺愛でありながらも支配なので、ハピエンではありません

それから、世間と自分の欲望に向き合いたくなりました。

私はもともと、男らしさ×女らしさみたいな2次創作BLにそんなに惹かれないタイプです。
70年代少女漫画育ちなのに…あと男の娘とかめっちゃ好きなのに…
自分が描く2次創作BLに関してはあまりそこは反映されません。

ただ、私の描いている平徳がそういうのが好きな層にもリーチしている感みたいなのをぼんやり感じています。

別にほんと全然いいんですよ。好かれるのはどんなかたちだろうと私はめちゃくちゃうれしいんです。
めちゃくちゃうれしいです。
pixivだけ見てる人はここ見てないと思うけど。

ただ、こっちも人間なので個がある。(2回目)

男らしさ×女らしさとか、スパダリの溺愛甘やかしとか、そういう欲求と幸せがフィクションにおいて世の中で好かれているアンチテーゼとして、人による人の支配・人の尊厳の軽視や危うさみたいなものが描けたらよかったな〜と思いました。(過去形)

私モラハラがすごいだめなんですが、車道側を歩いてくれる人とかやきもち妬くとかってモラハラと表裏一体だと思うんですよね。体感ですけど。
弱きものとして扱われてるとき、かわいらしいお花の土の下の根っこの部分では支配に繋がってゆく気がします。
私はそれなりに弱者なので、支配に敏感なんだと思います。

あと世俗の幸せフィクション作品にアンチテーゼを提示したところで、じゃあ平徳に訪れる幸せって何?あるのか?っていうことも考えました。
原作でリンチしてて、阿修羅の神道への扉を開けておいてくれて。
しみじみと飴と鞭では済まされない。私は済まさない。(強めの思想)
平等院と徳川は、それぞれ他の人たちといたほうが普通の観点では幸せそうだなという気がしています。いや原作読んだらそうだろうよ。

あとひとつだけ。
幸せが好きな人たちへ。
推しカプに幸せになってほしい人たちへ。

いじわるで描いてるんじゃないけど、いじわるだと思ったらごめんなさい。
アンチテーゼって対照性を描きたかっただけなので、好きな人の否定(アンチ)をする気は無いつもりです。
むしろ勝手に私の中では和解したくて描いたみたいな感じです。俺の答えはこれや。
私が描きたいものは、場合によっては普通の幸せより強烈かもしれない、劇薬みたいな、プラスマイナスは問わない、何かかな〜って感じです。
ご理解くださればと思います。

新刊買ってね(ストレート販促)

販促にしてはこの文章は売る気ないだろとは自分でも思います。
別に買われたくて書いた文章ではなく、言語化したくて。
ただまあ、ぼんやり、買ってくれたらうれしいな〜、って感じです。
解説は格好悪いつったのに、これって解説なのかな。
とにかく格好悪い気はする。
ただ、多数派のテーゼの側の人たちに真摯でありたい、と思ったので書きました。

はい、そういうわけで新刊はこちらから買えます。
もう買える設定にしてますが10/27のイベント後に発送します。
イベント楽しみ!!!!!お気軽に話しかけてください。
よろしくお願いいたします。



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