「2010年2月11日 " 異端児 " は死んだ」
「2010年2月11日、" 異端児 " は死んだ」
Alexander McQueenのデザイナーであるリー・アレキサンダー・マックイーンは40歳という若さで自らの命を断った。
ファッション界の「異端児」とまで言わしめる程、この世界に新しい世界観と概念を生み出し続けていた彼が何故 " 自殺 " と言う選択をしたのか。そしてそんな彼の生涯はどんなものだったのか。
今回はそんな生涯を振り返りたい。
ご覧頂きありがとうございます。
その前にまず、自己紹介をさせて頂きたいのですが、現在東京の某服飾学校に通っていて、将来的にデザイナーを目標に勉強をしています。
その為、主にファッション関連の記事を多く書いているので気に入った記事などございましたらフォローして頂ければと思います<(_ _)>
1969年、 " 異端児 " は生まれる
1969年、アレキサンダー・マックイーンはタクシー運転手の父親の家に6人兄弟の末っ子として生誕。
ロンドンの労働者階級の家に生まれた彼は中学卒業までは一般的な生活をしていたが、16才の時、ファッションの道へ進む為、当時通っていた高校を自主退学することを決意する。
青春を捨て、ファッションの道を進んだ彼は当時、メディアで「仕立て屋が人手不足」と言うニュースを耳にするとすぐにサヴィル・ロウの元へ出向き、仕立て職人のアシスタントとして雇われる。
そして「アンダーソン&シェパード」や「ギーブス&ホークス」などの高級紳士服店にてテーラリングを3年間学び、ここで培ったテーラリング技術が後に彼の最大の武器になる。
20歳でサビル・ロウを離れ、日本ブランド「Koji Tatsuno」やイタリアブランド「Romeo Gigli(ロメオ ジリ)」で働いたのち、ロンドンにあるセントラル・セント・マーチンズ大学院で学んだ。
↑セントラル・セント・マーチンズ大学院
同大学の卒業コレクションでは「Jack the Ripper Stalks His Victims(切り裂きジャックが被害者に忍び寄る)」をテーマに自身の髪の毛で有刺鉄線模様を刺繍したコートなどを発表。
この時、この卒業コレクションを訪れていたVOGUE編集者 " イザベラ・ブロウ " の目にとまり、卒業制作は5000ポンド(60~70万)で全て彼女が買い取り、それが大きな話題となる。
そして彼女は彼の作品を
「モダンでクラシカル、美とバイオレンス。今まで見た中で1番美しい」
と話しています。そして彼をファッション界のトップにすると決意する。
※イザベラ・ブロウ。本来のファーストネームの「リー」ではなく、ミドルネームの「アレキサンダー」をブランド名に使うよう、アドバイスしたのも実は彼女。
Alexander McQueen 誕生
翌年の1992年、失業保険を資金に23歳で「アレキサンダー・マックイーン 」を創設。
アレキサンダーマックイーンの創る服は現代的で美しく、「サヴィル・ロウ」でアシスタントをした経験を生かして、テーラードの精巧な創作やデカダンス的な演出などのアバンギャルドな表現が高く評価されている。
そしてクリエーションの便宜を最優先させる為、「職人のアトリエ入室禁止」と言う無意味な権威主義的な老舗メゾンのルールも排除している。
スカル柄
マックイーンの代表的な柄と言えば間違いなくこの「スカル柄」。そしてこの柄を大流行させたのも同ブランド。
この毒々しいスカル柄を取り入れた背景には、当時の主流ファッションであった見た目がきれいな取り澄ましたものへの疑問から死や暗黒面にも価値を見出す世界観を表現したかったからというものだ。
ダミアン・ハーストとのコラボ
↑2013年にはイギリスの美術家、ダミアン・ハーストとのコラボも実現。ダミアン・ハーストの「死」の表現とアレキサンダー・マックイーンの「死」の世界観が合わさった不気味だが、どこか儚くて美しいこの2人ならではのスカーフが誕生した。
アヴァンギャルドなコレクションの数々
そしてブランド設立の翌年にはロンドンコレクションを発表。イギリスは「英国紳士」と呼ばれるように、「洋服は他者に失礼のないように装う」という考えが美徳とされている為、ドレッシーなアイテムが多い。
そんなイギリス出身デザイナーであるマックイーンだが、彼のコレクションは全く異質なものだった。
当時主流の「クラシックスタイル」に現代のスタイリッシュでどこかインダストリアルな印象のあるファッションを提案し、新しい定義を生み出した。そんな彼には賛否両論も多く、コレクションの途中で帰る人すらいた。
1995年秋冬「Highland Rape(レ〇プされたハイランド)」
彼を一躍有名にしたのは1995年秋冬コレクションである。テーマは「Highland Rape(レ〇プされたハイランド)」。文字通りレ〇プ(強姦)がテーマだ。
胸や下半身を露出したモデル達は何か醜いことが起きた後かのようにフラフラとよろめきながら歩く。
今では考えられない程に衝撃的な光景にジャーナリスト達は「暴力的である」と批判し、新聞ではこの出来事をトップに扱った。
そしてリー・アレキサンダー・マックイーンと言う " 異端児 " は世に知れ渡り始めることとなる。
この時の彼は
「自身のショーでは日曜日のランチを楽しんだような感覚を持ってほしくない、嫌悪感、もしくは爽快感を持ってほしい」
と語っている。
この後も彼の前衛的なコレクションは続き、その他、放尿プレイ、車の引火、寄生虫、呼吸用チューブの付いたマスクを被った女性がヌード姿で横たわっている表現など。言葉だけを聞いても過激すぎるコレクションだと簡単に想像が付く。
これが彼が「反逆者」や「異端児」と呼ばれる所以だろう。
そして彼は「売れ線狙いは絶対にしない。金もうけに興味はない」と宣言しており、ビジネス重視のブランドとは一線を画している。
川久保玲氏やマルジェラ氏と同様、滅多にインタビューを受けなかった彼が1度こう語ったことがある。
「自分のことを語る必要なんてない。僕の作る服が、僕のことを語っている」
そんな彼の服に対しての狂気的なまでの追求や前衛的な表現が、レディー・ガガやビョーク、デビットボウイなどの唯一無二の感性を持ったアーティスト達が引かれた理由でもあるだろう。
そしてレディー・ガガの「バッド・ロマンス」のミュージックビデオではマックイーンの作品を着用している上、「ボーン・ディス・ウェイ」はマックイーンが自分に乗り移って作ったと述べている。レディーガガの生涯でリー・アレキサンダー・マックイーンの存在はかなり大きななものであっただろう。
アーティストからの人気もそうだか、様々なセレブ達にも愛されている。
↑キャサリン妃がウィリアム王子との結婚式の際に、同ブランドのウェディングドレスを着用したことでも注目を集めた。
GIVENCHY就任
1996年、27歳と言う若さでジョン・ガリアーノの後任としてジバンシィのレディースデザイナーに就任した。
この際彼は
「まず、ブランドの歴史やユベール・ド・ジバンシィの時代を全て忘れることからはじめた。」
と話したように自分の本質的なものを軸とし、彼自身のテイラーリングの美を持ち込んんだ。
前衛とクチュールスタイルを融合した作風は大反響で「ブリティッシュ・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を27歳で受賞する。その後も3回、同賞を受賞した。
このようなことから彼のジバンシィ就任はとても名誉ある素晴らしい出来事に見えるがこの就任をきっかけに彼の人生は狂い始める。
自身のブランドを持ちつつ、ジバンシィのデザイナーとしての仕事も受け持つということで年14回ものコレクションを行うと言うプレッシャーがかかっていた。
ジバンシィ就任により、クリエイションの面は日を追う事に磨かれて言ったが、それに比例するように彼の精神と人間関係は破綻していく。
そしてそのプレッシャーに負け、とうとうドラッグを手にしてしまう。
2000年、彼は同性愛者であった為、男性のジョージ・フォーサイスと結婚式を挙げたが、当時スペインは同性同士の結婚が認められていなかったので、結婚は非公認だった。二人は1年後に別れたが、友人として仲が良かったらしい。
この別れた理由も時期的にこのジバンシィ就任と関係があるのかもしれない。
↑(右)マックイーンと当時結婚をした男性、ジョージ・フォーサイス。初め見た時は「アレ?同性婚じゃなかったの?」と一瞬、疑問に思ってしまったものだ
同年、「マックイーン社」株の51%をGUCCIグループに売却したことにより、LVMHの傘下であるジバンシー社とは仲違いをしてしまう。
恐らくだが、それにより、翌年の2001年、ディレクターのトム・フォードから誘われ、GUCCIのクリエイティブディレクターに就任し、ジバンシィを去る。
そしてその翌年に「ハンマツ・オブ・サヴィルロー」が縫製するクチュールのメンズコレクションを発表。
2010年2月11日、 " 異端児 " は死んだ
2007年5月7日、イザベラ・ブロウ死去
多くの地元メディアは当初、イザベラ氏の死因については「がん」と報道されていたが、実際は「薬品の過剰摂取」によるものだったと明らかになった。
↑他界した彼女の死を悼んで2008年春夏コレクションは行われた。
2010年2月11日、リー・アレキサンダー・マックイーン自殺
そして2010年2月11日、全世界を驚愕させることが起きた。それはアレキサンダー・マックイーンが自殺をしたとのことだった。
当初、自殺の理由の憶測が浮上していたが、彼の遺書が発見されたことで自殺の理由が明らかになった。
検死官によればその理由は
「彼はひどく鬱の傾向を持っており、ショー終了後は特に落ち込み、孤立を感じていた。そして精神のバランスが乱れた状態で自殺をした」
とのことだった。
遺書は彼の愛読本の裏に残されており「埋葬に関する希望」「犬の面倒を見て欲しいとの希望」が記されていたと言う。
2010年2月11日、アレキサンダー・マックイーンの死去後、ブランドの親会社であるグッチ・グループはブランド継続を決定し、翌月のパリ・ファッション・ウィークでは遺作となってしまったコレクションを発表する。
彼の死後、レディー・ガガは
ダイアモンドよりも、賞よりも、マックイーンとの短い友情の思い出以上に、私にとって大切なものはない。
と語っている。
コムデギャルソンとの関係
2011年春夏 『the skull of life』
↑コムデギャルソンの2011年春夏コレクションではアレキサンダー・マックイーンの象徴的なデザインであるスカル柄を使用したコレクションが行われた。
アレキサンダー・マックイーン自体のコレクションにはスカル柄はそこまで使われることはないが、川久保氏はこのスカル柄を使った理由として、当時のファッション界を悲壮感などを払拭したいと言う思いがあったと言われている。
次期デザイナー、サラ・バートン
リーの右腕としてウィメンズウェアラインのヘッドデザイナーを務めていたサラ・バートンがクリエイティブディレクターに就任。
翌年彼女はブリティッシュ・ファッション・アワードの「ベスト・デザイナー・オブ・ザ・イヤー」を受賞。
そして今年の2020年には、将来のファッション業界を担う服飾学生の支援活動として、過去10年間のコレクションサンプルの生地をイギリスの学生達に寄付する「ファブリック・ドネーション」を開始。
この活動をする背景には今重要視されているサスティナビリティの他、彼女が学生の頃卒業制作のための生地を購入する余裕がなかったという体験がある。そんな苦しい時に援助してくれたのがあのアレキサンダー・マックイーンだった。
アレキサンダー・マックイーンの追い求めていた " 美 " や " 反骨精神 " はサラ・バートン含め、Alexander McQueenのチーム全員に受継がれ、日々活動している。
これからもサラ・バートン率いる「Alexander McQueen」の先進的な取り組みにはより一層注目したいと思う。