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【日記】石川旅行

土曜日、日曜日と、家族で石川県能登半島に出かけた。


2023年の年末から2024年の年始にかけて我が家は石川県に旅行に行っていた。偶然、あの地震に遭った。
あのときは書けなかったけど、今回すごく思い出したので、やっぱり書いておこうと思う。


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2023年の年末。
出発するとき、ただの風邪にしてはきついなぁ…という風邪に3番目と4番目の子がダウンしていたのだけど、まぁそれもやっと、そろそろ終わりかけだな、それに家で寝てるよりホテルで寝てるほうが気分が変わっていいでしょ、くらいのノリで出発したのだった。年末年始で、いつもの病院はやってないし、救急に行くほどでもないので病院には行かなかった。
私は風邪にはかかっていなかったものの、第5子の妊娠がわかってすぐのころで、絶賛つわり中ではあった。
あの頃は、正直なところ、妊娠したことがショックで、だけど当然、当たり前ながら自己責任なわけで、ショックとか感じている自分に自己嫌悪で、気持ちがかなり落ち込んでいた。

大晦日、夫が具合が悪い気がする・・と言い始める。
楽しみにしていた夕食のバイキングも、まったくもって気乗りしない様子。
元日、少し観光をしたけど、やっぱりしんどいということで、ホテルでゆっくり過ごすことにする。ホテルには卓球台もあるし、カラオケもある。
ホテルに戻る前に薬局で風邪薬を買おうかと、車に乗った。小松市内にある、どでかいイオンモールをみつけ、長女が行きたがったので、夫には車で寝ておいてもらって、ちょっとだけうろうろして薬買って戻るね~、と言って出た。中学生ふたり、幼稚園児ふたり、そして妊娠初期妊婦のわたしの5人。
店内に入ってすぐにドラッグストアがあったので、風邪薬を買う。そのお会計を終えるか終えないかのタイミングだった。一斉にそこらじゅうでスマホのアラームが鳴る。構える余裕もないままガタガタガタと地面がすごい勢いで揺れる。かなり大きいし、長い。私は阪神大震災を経験しているのだけど、あのときの揺れよりはましなように思った。が、商品棚の栄養ドリンクがガシャンガシャンと下に落下していくし、立ってはいられず、しゃがみ込む。ちびっこふたりが、こわい!なに!?と私にしがみつく。長女も、パニックで泣きそうになっている。私と長男がなだめる。
店員さんが、買い物かごをかぶるようにと渡してくれて、ちびっ子たちを守るようにそばにしゃがんでくれた。揺れが収まったと思ったら、店内の非常ベルが鳴り出して、火災が発生したためすぐに店の外に出るようにとのアナウンスがあった。そして店内ではスプリンクラーが作動し、天井から水が噴射されはじめた。
誘導されるがまま大勢の人の波に流されるように外に出る。車に一人でいる夫も心配。早く合流したい。スマホのアラームは繰り返し鳴る。外にでると、「津波警報がでています!!高いところへ避難してくだい!!」と叫ぶ声。人の波はそのまま店外の非常階段へ流れていく。4歳娘を抱っこして階段を上がる。まだパニックの長女が腕にしがみついている。6歳息子は長男に任せ、しっかりと手をつないでもらい、ぜったい離さないでといった。周りは人人人、だけどパニック状態ではなくて、みんな冷静なようだった。みんながスマホで情報を探している。屋上までたどり着く前に、夫と電話がつながった。一度店内に入り、夫と合流。店内で避難している人がたくさんいた。非常ベルはもうなっていない。そこらじゅうの店舗の天井のスプリンクラーから水が噴射され続けていて、床は水が流れている。靴も靴下もびちゃびちゃ。雑貨や寝具などの専門店が並ぶモール内のスペースで一旦、身を寄せ合い座り込む。周りにもたくさんの家族連れ。ここでも頭を守るための買い物かごが配られる。かごだけではなく、飲料、こどもたちにおやつ、おむつ、毛布やふとん、ぬいぐるみまで、商品棚からカートに乗せられてきて配られていた。余震が何度もあった。
2時間くらいそこで過ごした。トイレにいくと長蛇の列で、なぜかというとトイレが詰まってしまって、なんとそれを店員さんがいちいちスッポンで処理してくながらお客さんを誘導していたのだった。この店員さんたちだって家で心配している家族がいるだろうことを思うと頭が上がらない。
自分たちのいる場所は津波の心配はなさそうだということで、夕方を過ぎてイオンモールを出てホテルに向かう。体調不良だったはずの夫は騒動に飲まれすっかり平常運転。
店内には、お正月用に並べられていた石川産のお酒も、九谷焼の皿も、たくさん落ちて割れていた。なにも食べていなくて腹ペコだけど買い物はできなかった。予約され、受け取り待ちの、お正月のための豪華な寿司盛りが行き先を失っていた。みんなが、家族で楽しく過ごすはずだった日が、一変してしまったんだと感じた。能登の方は津波に襲われたらしい。石川はこれからどうなるんだろう。


当時、地震の翌日に大阪に帰って、私は夫から風邪のバトンを受け取って1週間ほど寝込んだ。神戸への帰省も、夫の実家への帰省もキャンセル。能登半島地震の報道を何度も見た。回復してからも気持ちはずっとずっと、低空飛行状態だった。

なんのめぐり合わせだったんだろう。あのときあの場所にいた。

それから1年。

2024年12月あたま。

カニを食べに行きたいねという話から、能登に行こうとなった。
というか、夫が独断で決めた。
中学生ふたりと夫で、ボランティアに申し込んだ。

あのとき居た場所をずっとずっと通り過ぎ、能登半島を海沿いに進む。
震源地だった珠洲市へ。
テレビでは「復興が進んでいない」というのは見ていた。初めて実際に目の当たりにする。もとの風景が想像できない。信じられない風景がずっと続く。心が痛む。
堕ちた道路、あちらこちらで土砂崩れのあと。
土に埋もれた家、倒れた家、つぶれた家、傾いた家、跡形もない家だったであろう場所。その一軒一軒に生活があったのに。

泥かきのボランティア活動を待つ間、下の3人を連れてどこで時間をつぶそうかと思っていたら、ボランティアセンターの方から、車で5分ほどのところにあるスポーツセンターのようなところにぜひどうぞと案内していただいた。仮設住宅がずらりと並ぶ一角で、そこに住んでいる中学生や高校生、大学生たちが、こどもの遊び場を開いていて、うちの子供たちも一緒に遊ぼうと受け入れてくれた。

施設のトイレの水は流れないそうで、トイレカーが停まっていて、そこを使ってくださいと言われた。男性用ひとつ、女性用ひとつ。扉は重たくて、入口は高い段になっている。お年寄りがほとんどであろうこのずらりと並ぶ仮設住宅に暮らす人たちの、共同のトイレが、1年経って、いまだにこの状態なのだということをリアルに思い知る。ボランティアセンターにも、トイレカーとお風呂のための車があって、利用されていた。

 ここにくる前に、輪島市にあるパン屋さんに立ち寄っていた。海の目の前にあるパン屋。手の込んだパンや焼き菓子がショーケースに並んでいて、少しお話をさせてもらったのだけど、その間にも地元のお客さんが続々と来られていた。
被災地の現実をみて、この地で、あのパン屋さんの存在は、きっとすごく大きいのだろうなと思った。パン屋さんの空間に行くと心がゆるむ。気持ちが上がる。ワクワクする。パンを食べるとき、スーパーやコンビニのパンにはない「手仕事」を感じてホッとする。丁寧に作られたものを食べることは、自分を丁寧に扱うこと。

生活がままならない、心配事もたくさんあるだろう、この先の不安も尽きないだろう。そんな中でふと、あのパン屋さんは、心をゆるませてくれる存在なんだろうなぁ。


珠洲市をあとにして、加賀市へ。
ファミリーの味方、大江戸温泉物語。
地震のときに私たちがいた場所に近い。
7人家族の私たちに用意された部屋はなんと大宴会場だった。とんでもなく広い。広すぎる。野球少年でも端から端までまくらを投げられないほど広い。我が家は一瞬でその場を散らかす天才集団である。が、あまりの広さにどれだけ散らかしていても気にならなかった。ありがたや。
カニをたくさん食べて、温泉に入って、超広々とした部屋で家族全員すぐに寝た。

翌朝、朝食バイキングを楽しんだらチェックアウトの11時まで、卓球。
中学生のふたりが白熱。そのあと小松空港のそばにある、航空博物館。
航空の歴史、なかなか面白かった!大きなこどもの遊び場はなんと無料。

それから思い出の小松市のイオンモールへ行ったら、1年前のことがものすごく思い出された。石川県産のカニと日本酒を買って帰った。今回石川に行って、これを書いて、1年前の旅行が、とりあえず完結したなという気持ち。

震災に関すること、うまく言葉にできないけど。
被災地を見たら、心が痛むし、でも何もできないし。って、思うけど、それでも自分の目でみて感じることにはとても意味があるんだなと思った。何があっても「生活」はずっと続いていくんだということを思い知った。

誰かのために何かできなくても、自分の目の前の「生活」を、あらためて大切にすることからやっていこうと思う。




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