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監督通訳から18歳・大久保嘉人の送迎まで。長谷川顕がセレッソと歩んだ20年

「セレッソにおいて、ホームスタジアムのある長居と違い舞洲は練習場所。そこに集客は求めていないし、舞洲プロジェクトを開始した当初は何を目指したらいいのか迷っていました」

現在、セレッソ大阪社長室ホームタウングループ長として舞洲プロジェクトなど、地域貢献活動に尽力する長谷川顕(はせがわ・あきら)さん。チームがJリーグ参入を目指していた初年度に通訳として加入し、それ以降は広報や強化部など、さまざまな業務を歴任。「セレッソ歴」は約20年に及びます。セレッソ大阪を近くで見続けてきた長谷川さんに、舞洲の魅力やプロジェクトの意義を伺いました。


ブラジル留学を終え、一度は離れたサッカーと再会

中高校時代は、地元・彦根の学校でサッカー部に所属していました。高校選手権を最後にプレーヤーとしての気持ちは燃え尽きてしまい、京都の外国語大学へ進学しました。学科はブラジル・ポルトガル語学科です。

「異国への好奇心」という理由で外大を受験したのですが、日本から一番遠い国。ブラジルという国がどんなところか見てみたいと漠然とした理由でポルトガル語を選びました。その後はJリーグが開幕する1年前かな。大学2年生の時に休学をして、ブラジルへ留学しました。


サンパウロで過ごしましたが、治安は良くなかったです(笑)。海でリュックサック背負って歩いていたら、目の前でナイフを出されて「そのリュック渡せ」と言われたり。

仕事としては、日本語学校の講師にチャレンジさせてもらっていました。ブラジルは世界で最も日本人移民の多い国です。その日系移民の3世4世となる子どもが通う日本語学校が多くあります。一方で日本語を教えることができる人は少なく募集があったので、ネイティブの講師として、子供たちに会話や文字を教えていました。

ブラジルでサッカーの仕事は全くしなかったです。当時はJリーグも開幕していなかったですし、帰国したら貿易や商社の仕事をしようと。帰国してからは、大学の先輩が立ち上げた在日ブラジル人向けのお店でアルバイトをしていました。輸入した食料品や雑誌を販売するベンチャー企業だったのですが、そのままそこに就職が決まりました。


そんな中、当時JSL2部だったヤンマーサッカー部に森島寛晃(現セレッソ大阪社長)が入団しました。Jリーグも誕生して、セレッソ大阪として本格的に参入を目指すと。当時、ヤンマー出身でセレッソの部長だった上藤さんと、大学の先輩の仲が良かったんです。Jリーグ参入にあたって、大勢のブラジル人監督や選手が家族を連れて来日すると。そこで通訳として推薦していただきました。


大学卒業も近づいた1月に、セレッソが宮崎でキャンプすることが決まりました。エミリオ監督を伊丹空港まで迎えに行ったのが、セレッソでの最初の仕事ですね。

3日くらいで宮崎を離れる予定だったのですが、セレッソもすぐには自分の代わりとなる通訳を見つけることができなかったんですよ。とりあえずキャンプも始まってしまうから、見つかるまで……ということで宮崎に残りました。でも、結局見つからず。一方で僕は先輩の企業に入社が決まっていたので、3年くらい派遣という形でセレッソで通訳を続け、そして今に至ります。

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「通訳が選手に合わせる術を身につければいい」

グラウンド上での通訳の仕事は時間的にわずかで、練習外の仕事の方が多いんです。練習もデートの通訳もなんでもやりますからね。今だから言えますけど、あるブラジル人選手が宮崎キャンプの取材に来たアナウンサーさんと食事がしたいと。テレビ局と連絡を取って、運転手として食事からドライブも連れて行きました。口説き文句もちゃんと通訳しました。そういったプライベート込みの仕事なので、鍛えられましたね(笑)。

通訳として支える中で、勉強させてもらった選手もいました。特にJリーグ参入後に加入した元ブラジル代表ゴールキーパーのジルマールは、すごく頭が良かったですね。100年以上の歴史があるブラジルのサッカーや異国文化を教えてもらいました。

こちらの常識はあちらの非常識。あちらの常識がこちらでは非常識ともいうように、文化が全く違いますからね。どの選手が相手でもこちらの常識を押し付けずに通訳側が合わせていく方がいいですね。基本的に外国人選手はスターとして来日しているわけですから、日本でも本国同様いいパフォーマンスを発揮して欲しい。自らの姿勢を無理に変える必要はありません。通訳が選手に合わせる術を身につければいいんです。一般の通訳の仕事が短期間で終わる事が多いのに対して、サッカーチームの通訳は24時間365日と長く、家族含め付き合う深さが深くなるのが大きな違いではないかな。 

「どんぐり坊主」大久保嘉人との忘れられない1日 

通訳だけでなく、強化部や広報業務も務めました。通訳やチームの雑用業務も幅広くこなしていた当時、高校を卒業した大久保嘉人選手を迎えにもいきました。当時の大西強化部長から、「国見高校の大久保が、週末に朝5時のフェリーで来るから迎えに行ってくれ」と。

どんぐり坊主の嘉人が、お母さんと一緒にフェリーから降りてきたのを出迎えました。ピッチ上での激しいパフォーマンスと違って、むちゃくちゃ大人しかったですよ。天王寺にスーツを見にいったり、ファミレスでご飯を食べたり、あの1日は今でもよく覚えています。

今シーズン、セレッソに戻ってくるのが決まった時は、すごく嬉しかったです。(今では嘉人さんですが)嘉人も他のチームだと気を遣われるかもしれないけど、セレッソだと僕らのように顔なじみが多いのでやりやすいんじゃないかな。僕たちスタッフも「大久保さん」というよりは「嘉人」おかえりっていう感じで迎えることができました。


現在は、社長室のホームタウングループに所属しています。舞洲プロジェクトをはじめ、地域の活動に幅広く関わっています。森島社長も、現役時代からすごくホームタウン活動をする選手でした。地域の盆踊りに参加したり、1日警察署長をしたり。こうした森島社長自身の経験が、社長室にホームタウンの部署ができた背景にあると思います。

ホームタウンの活動は、通訳の仕事と似ている部分もあります。外国人選手の子どもを地域の学校に入れたり、マンションのごみ出しのルールとか、どの活動にも地域の情報は必要になりますからね。

舞洲は情報のプラットフォーム

セレッソにおいて、舞洲は練習場所。そこに集客は求めていないし、舞洲プロジェクトを開始した当初は何を目指したらいいのか迷っていました。

しかし、プロジェクトを進めていくにつれて、大阪市と3つのプロスポーツチームが繋がる舞洲には、セレッソだけで活動をしていたら触れることのない情報やベンチャー技術が集まってくるなと。また、行政との連携が取れて、スマートシティ実証の場にできるのも、舞洲プロジェクトを進める大きな意義だと考えるようになりました。集まった情報や技術を使って日本全国へ発信していく。舞洲は大きな魅力とポテンシャルを秘めた場所だと思います。


セレッソには、『CEREZO OSAKA LAB』があります。そこには現在トップチームで活躍するアカデミー出身選手をはじめ、これまでセレッソで活躍し巣立っていった選手たちのデータが蓄積されています。こうした情報は1つの武器になるのではないかと。


例えば、サッカーをしている子どもが、別の競技に適正がある可能性もありますよね。それなのに、最初にたまたまサッカーを始めてしまったという理由で、方向転換ができない現実があります。

1競技で行き詰ったとしても他競技への変更で成功する選手もいるのではないかと。このような問題に対して、舞洲では野球やバスケと連携して対応できるのではないかと。ブラジル人フィジカルコーチの通訳をしてる時、NBAでプレーする2mを超える選手が、どうしてあんなにアジリティ(機敏性)があるのか興味深いと話していました。複数の競技に渡って情報が集まる大阪・舞洲には、そういった分野の研究を深めていける可能性は十分にあると考えています。


あとは行政と連携したインバウンド施策。「メディカルツーリズム」が注目される現在はアジアから日本への治療・手術・検診などの医療を目的とした観光者が増えていると聞きます。3チームそれぞれにスポーツフィジカルのコーチがいるわけですし、ベースボール、バスケット、サッカーのスポーツを通じて健康や体力検査のプラットフォームを舞洲に作ることもできます。今後は大阪市など、行政と合同の施策も必要になってくると思います。

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