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二種類の幸せ感を持つオンナ
大人になっても美しく、愛されていて、好きな仕事で輝く「おいしそうな女」になりたい。
私自身がこの10 年で「おいしそうな女」を目指してきて感じるのは、「とにかく楽しい」「とにかく幸せ」と思うことが多かったということ。もちろん人生それだけでは済まされない辛い時期もあった上だけど。
それらひっくるめて、愛おしい10年間。
私は、人は「なりたい自分」や「目指す姿」があるときと無いときでは、「幸せを感じるところ」が違うと思う。
結論から言ってしまえば、幸せ感には種類の違う二種類が存在する。
どちらが良いということではない。
ただ、目指す姿があるときの方が「エキサイティングなハッピー」を得ることが多い。なりたい姿に近づいたとき「やったー!!」とばかりに、アドレナリンが出るような、興奮系の幸せ感だ。
一方、世の中には、毎日の生活の中で、例えば「お天気が良かったから洗濯ものが気持ちよく乾いた!ぽかぽかでハッピー」という、セロトニンが出るような、ささやか系の幸せ感もある。
どちらがハッピー度が高い低いという話ではない。種類が違う、タイプの異なる幸せ感をいうところだろうか。
私のことを言えば、小さな頃から興奮系の幸せ感を追い求める「目標設定型タイプ」の人間だった。10代は外見コンプレックスがひどかったので、「可愛くなる!」「キレイになる!」ことを目標にしてきた。本音をいうとそれは「モテたい」とか「人気者になりたい」とかの理由だったけど(笑)
20代はたった一人のオトコから溺愛されたいと思っていたし、なりたい姿自体が、根っからの女っぽいタイプなのも自覚している。
まぁ、なりたい姿やその理由がどうあれ、つまり10代から、目指す姿がわりとはっきりしている方だった。わりと若い頃から「毎日が穏やかで幸せ❤︎」という、ささやか系の幸せ感よりも「目標達成した———!」という興奮系の幸せ感の味わいを体感してきたのだ。
すると、どうなるか。
興奮系の幸せ感をまた味わいたくなる上に、目標設定をすること自体に楽しさを感じるようになった。
「達成したら、あの興奮系のハッピー感が得られる!」と、ノートやメモ帳や手帳に、目標を書くのが日常になっていった。
そして、目指す姿になれると喜びもひとしお。という繰り返しで大人になった気がする。
ところが、35歳くらいになって、気づいたことがある。
「目標ばかり追い求めている興奮系の幸せ感も大事だけど、ほんとうの幸せとは、日常の中のささかか系の幸せ感があってこそ、なのではないか」と。
とくに、この10年間で病気を二回もしたとき、「日常の中のささやか系の幸せ感があるからこそ、目標達成できたときの興奮系の幸せ感は成り立っている」ということに嫌という程気づいた。
そして、自分のなりたい姿を追うことで、気づいてこなかったささやか系の幸せ感、とくに家族に恵まれていることに感謝したいと強く思った。
それに、目指す姿にばかりとらわれていると、いつのまにか「今の自分は足りない私」という考えがひょっこり顔を出す。すると、足りない方にばかり目が向き始め、手に入れていない自分を責めたり、叶えている他人をうらやましく思ったりする。
日常が幸せではなくなってくるのだ。一時期、目標設定することから遠ざかっていた理由は、目標にとらわれてきて、苦しくなってしまったから。
すぐ側にある幸せに気づけないことほど不幸なことはないと思う。
そうなるともう、本末転倒。
だから、この10年は、二種類の幸せ感を大事にしてきた。
それこそ「おいしそうな女」たちが醸し出す、おだやかで幸せそうな雰囲気の秘密ではないかとさえ思う。
柴崎マイ