詩における語りの手法──The Road Not Takenから
詩は語りの手法によって、詩が読者にどう読まれるか操作することができる。
Robert FrostのThe Road Not Takenを語り手から分析してみると、詩は一人称視点で語られており、「あの朝」に実際「黄色い森」で岐路に立っていたのか(それとも比喩であるか、)語り手自身の年齢、性別等が不明のままにされていることがわかる。
不明性で言えば、語り手が「黄色い森」にいたのは昨日や一昨日のことなのか、それとも幼少期なのか青年期であったかも不明とされる。この不明性は、語り手が自身の詳細を伏せて語る手法を取ったことで生まれたものであり、個人の一切を明かさず成立した詩は、この詩が多くの人に読まれていることからも、より純粋な普遍性を持たせることを可能とする手法だと考えられる。
この詩において実体を持って現れているのは、この詩を語っている現在の語り手と、語り手によって最終スタンザで引きずり出された聞き手ないしは読者の存在のみである。語り手は自分が時と場所を変えて何度もこの話をしてしまうだろうと話すのだが、実際に語り手が時と場所を超えて、話し相手として多くの読者を作品内に召喚するという作品上での普遍性の証明を、語りの手法が可能にさせている。
選んできた道は語り手が辿り着いている目の前の景色そのものであるが、語り手が選ばなかった道について考えるとき、目の前に表れることのない可能性のような景色は選ばなかった語り手の内にしか存在することができない。
そしてこの詩のほとんどの動詞が過去形であることからもわかるが、選ばなかった道はどちらか一方を選んだ時点で過去性を持ち、語り手の記憶として居座るようになる。
それから"shall be telling...ages and ages hence"とあるように、語り手は自分がこの記憶をこの先いつまでも語り続けざるをえないのだと知っている。
このような過去を反芻し続ける行為は現在から自分の起源の座標を確認し続ける行為と捉えることができ、これは過去に対し現在でしか行うことができない行為である。
つまり、過去を反する現在を"shall be…"と自身の未来として予言することで、この語り手は自身の過去/現在/未来の一本道、生き方をこの詩のうえで形作っていると言えるのではないか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?