『コネティカットのひょこひょこおじさん』子どもから大人への移行──niceの喪失
序論
本稿は、J・D・サリンジャーによる短編小説「コネティカットのひょこひょこおじさん」(Uncle Wiggily in Connecticut, The Newyorker, 1948)を取り上げる。
この短編において、「nice」という言葉はEloiseとWaltに限って使用されている。Eloiseは、なぜ過去の自身を「nice girl」と形容したのか。彼女が過去の自分とかつての恋人であったWaltを指して使用した「nice」という言葉が意味したものは何か。
本稿では、Eloiseがこの言葉を用いた理由を考察するために、まず過去のEloiseと現在のEloiseを比較し、その後、EloiseとRamonaの共鳴するような行動に焦点を当てて論じる。
感受性と想像力──子供から大人への移行
過去のEloiseは「nice girl」であった。彼女はWaltの言葉を心から面白いと感じ、Miriam Ballに「ニューヨークではそんなドレスは誰も着ない」と言われたときには一晩中泣き続けるような感受性の高い少女であった。Miriam Ballの言葉に対するEloiseの反応は、彼女が自身の無知さにショックを受けたことを示しているが、それ以上に、故意に無知を指摘されたことに対する衝撃であったと考えられる。いずれにせよ、これらの出来事は、彼女が当時持っていた高い感受性を示している。
一方、現在のEloiseは過去とは対照的な人物となっている。彼女はAkim Tamiroffの”You make beeg joke--hah?”(『Five Graves to Cairo』でのセリフ)を好み、Ramonaの空想の恋人についてall very hooplaと表現している。彼女はすべての事柄を冷笑的に見ており、Dr. Whitingの死にも感動を覚えず、友人のMary Janeからhard as nails「薄情者」と評されている。Waltの死によって、Eloiseはその感受性を失ったのである。
しかし、Waltの死が彼女の世界をつまらないものにした可能性も考慮する必要がある。Waltの死が彼女から感受性を奪い、子供の夢の終焉を象徴しているとすれば、彼の死は現実と空想の境界線を象徴するものであったといえる。Waltの名前がアメリカのアニメーターであり、幻想と夢の創造者であったWalt Disneyと同じである点に注目すべきである。感受性は想像力と密接に関連しており、それは夢を与える者と夢を見る者、すなわち大人と子供を分けるものである。この物語は、大人が現実世界に生き、子供が空想と現実の混在した世界に生きていることを明確に示している。たとえば、Mary Janeは現実の側に立つ人物であり、キャリアウーマンであり、喫煙者であり、飲酒者であり、大人である。彼女はEloiseの発言に対して多くの場合微笑みで応じたが、Eloiseが語るWaltのジョークには一切笑わなかった。一方、EloiseはWaltの言葉すべてを面白いと感じており、Disneyのアニメーションをすべて楽しむ子供のようなものであった。しかし、大人になったEloiseはその感受性を失ってしまったのである。Waltの死は、無垢な子供から夢を失い現実にしか生きられなくなった大人への強制的な移行を象徴していたと考えられる。娘Ramonaの誕生によって、Eloiseの急速な大人への移行は避けられないものとなり、彼女は夢を失った現実の中で生きる大人になった。
EloiseとRamonaの類似点と相違点
Eloiseは、夫のLewとそっくりなRamonaを彼の分身と見なしており、彼女がEloiseに「母親」であることを直面させる存在であると認識している。「What I need is a cocker spaniel or something, somebody that looks like me」と彼女は語っており、家族の中で孤独を感じていることを示している。しかし、実際にはRamonaはLewよりもEloiseに似ている。「She won't tell anybody. She's lousy with secrets」という発言はRamonaについてのものであり、EloiseがWaltの死について誰にも語ろうとしなかったことと共鳴している。さらに、彼女たちは類似しているだけでなく、共鳴する関係にもある。この関係は、EloiseがWaltの死の現実を受け入れるにつれて強まっていった。
まず、EloiseはJimmyの剣を取りに行こうとするRamonaに「Stay out of the street, please」と言った。その後、Ramonaが帰宅した際、彼女はMary JaneにJimmyが車に轢かれて死んでしまったと語った。これは、EloiseがMary JaneにWaltの死について話した後、現実を理解した時点であった。ここで、EloiseとRamonaの恋人に関する類似点と相違点に注目する。彼らの恋人たちのうち三人のうち二人はDisneyと関連している:WaltはThe Walt Disney Companyの創設者であり、Mickey Mouseの初代声優でもあるWaltと同じ名前であり、Jimmyはそのキャラクターの二代目声優であり、Mickey Mouseはそのキャラクター自体である。唯一、LewだけはDisneyと関係がなく、Eloiseの現実を象徴している。彼らの恋人たちの一連の変遷において、Eloiseは一度現実を目にした後、Ramonaを通じて想像の世界、つまり子供の世界を見ることができた。これが物語の終盤で、彼女が過去の「nice girl」としての自分を思い出し、現在の自分がそうではないことを直視して涙を流した理由である。EloiseがRamonaをベッドの中央に引きずり込む行為は、Ramonaに彼女の頭の中の恋人が実在しないことを納得させるためであった。EloiseはRamonaの想像力に対して否定的に振る舞った。この想像力の否定は、子供時代の否定であり、Waltを完全に失うことである。この小説において、Waltと過去のEloiseだけが「nice」であり、Waltを失ったEloiseはこの時点で「nice girl」ではなくなってしまった。彼女が意味する「nice」とは、感受性と想像力を持った無垢な子供時代のことを示している。
結論
Eloiseの元恋人であったWaltは「nice」であり、Walt Disneyが子供たちの夢想家であることを示唆している。この物語は、彼女が過去の無垢さと感受性を失い、現実世界に直面する過程を描いている。かつて「nice」と形容される存在であったWaltとの関係を通じて、彼女は子供時代の夢想や純真さを象徴していた。しかし、Waltの死により、彼女はその夢想的な世界から強制的に引き離され、大人としての現実と向き合わざるを得なくなった。Ramonaとの関係において、Eloiseは自身の子供時代の感受性を否定することで、彼女がかつて持っていたものを完全に失ってしまったことを確認する。この物語は、Eloiseが「nice girl」だった過去を思い出し、その失われた純真さに涙を流す姿を通じて、成長と喪失の痛みを浮き彫りにしている。