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名前も知らない彼女のブレンド

「おお、雨、上がったなぁ」

店の外に出て空を見上げていたおじいさんが言った。「そうか、よかったなぁ」と店内にいたおじいさんが応じる。

常連さんだろうか。わたしがこの喫茶店に入ったときから、二人は向かい合わせに座って歓談していた。

わたしはそれを横目で見ながら、女性の店員さんが出してくれたブレンドコーヒーをひとくち啜った。

おいしい。

こましゃくれたガキだったな、といま振り返ると思うけど、わたしがコーヒーに目覚めたのは浪人生のときだった。もともとわたしが高校生のころに母がドリップコーヒーにハマり、そこから家族揃って日常的にブラックコーヒーを飲むようになったのだけど、そのころはいつも同じ銘柄ばかり飲んでいたのでその味しか知らなかった。

高3の終わり、背伸びして挑んだ大学受験で木っ端微塵に砕け散った。あまのじゃくで強情なところがあったわたしは、無理だ危ないとさんざん周りに脅されながら自宅浪人という道を選んだ。

宅浪といっても、家だとどうしても捗らないことがある。そこでわたしは、週に何度かカフェで勉強することにした。

近所のスターバックスを訪れ、アイスコーヒーを頼もうとすると、店員さんが「アイスコーヒーはいま、こちらの2種類からお選びいただけます」と言った。いまは変わってしまったのだけど、当時スターバックスでは、暑い時期にはアイスコーヒー2種類とホットコーヒー1種類、寒い時期にはホットコーヒー2種類とアイスコーヒー1種類の豆が用意されていたのだ。

「そんなに違いがあるんですか?」とわたしは訊いた。コーヒーは好きだけど、豆によってそんなに変わるのだろうか、と思った。

「結構違いますよ!こちらはどっしりと重厚で苦味のある感じ、こちらはフルーティーでさわやかな感じなんです。試飲してみますか?」

フルーティー?コーヒーって苦いものなんじゃないの、そんな甘酸っぱい感じの表現が合うんだろうか、とわたしには後者の味の想像がつかなかった。

店員さんが小さなカップに入れてくれたアイスコーヒーをひとくち飲む。驚いた。

「ほんとだ!フルーティーだ!」
「そうなんです」

店員さんがうれしそうに微笑んだ。そのコーヒーは確かに「フルーティー」だった。変な酸味があるのではなく、果実味があるような鮮やかな味わい。19歳のわたしには初めての感覚だった。

「フルーティーってこういうことなんですね。すごくおいしい」
「こちらもどうぞ」

もう一方のコーヒーも飲ませてもらった。味が全然違う。先ほどとは打って変わって、深い苦味を味わうようなフレーバーだ。重厚な香りが鼻まで抜ける感じがする。

「こっちもおいしい!本当に全然違うんですね」
「ブレンドや豆によって味や香りが結構違うんです。ぜひいろいろ楽しんでみてください」


それからというもの、いろいろな種類のコーヒーを飲むようになった。浪人生の間はチェーン店に行くことが多かったけれど、1年後の受験で無事志望校に合格して大学生になると、ちょこちょこと喫茶店に行ってはストレートコーヒーやブレンドコーヒーを飲み比べた。

最近は初めての喫茶店に入ると、ブレンドコーヒーを選ぶようになった。ブレンドはお店の方が好きなコーヒー豆を好きな配合で挽いたものだから、そのお店オリジナルの味わいを楽しめる(おまけにストレートコーヒーより安いし早い)。

この日初めて入ったのは、吉祥寺にある小さな喫茶店だった。木のぬくもりを感じる内装に、10席足らずのレイアウト。「カフェ」ではなく昔ながらの「喫茶」という感じだけど、入口の扉が開け放されているせいか、敷居は低く誰でもウエルカムな雰囲気が漂っている。

30代後半と思しき女性の店員さんはシンプルなカップに入れたブレンドコーヒーを置くとき、「お砂糖とミルクはお使いですか?」と訊いた。その手にはお砂糖もミルクも握られてはいなかった。

「大丈夫です、このままで」

わたしが言うと、心なしか彼女の顔がほころんだ。「わかりました」

その瞬間、なんだか、わかってしまった。この人は、とってもコーヒーが好きなのだと。

コーヒーの飲み方にはひとそれぞれの好みがあるとわかっている。ミルクと合うコーヒーもあるし、お砂糖を入れて飲みやすくなるコーヒーもあると思う。でも、そのコーヒーの風味を目一杯味わえるのは、絶対にブラックだ。

先ほどのおじいさんたちと彼女が会話を始めた。確証はないけれど、どうやら外で空を見上げていたおじいさんと彼女がこのお店のスタッフらしい。今日は彼女がこのお店を切り盛りしているようだ。もしかしたらおじいさんは年齢のためにオーナーらしく見えるだけで、本当は彼女がこのお店の主なのかもしれない。

運ばれてきた日替わりのスイーツは、素朴な見た目のかわいらしいクッキーだった。ひとくち噛むと、ほろほろとほどけるようにしてかすかな甘みが口の中に広がる。それはそのお店のブレンドととてもよく合った。

「ブレンドのお豆って、販売されていませんよね?」

お会計をするとき、一応訊いてみた。コーヒー豆を売っているお店は大抵どこかしらにその表示があるものだけど、このお店にはなかった。だからダメもとで。

「すみません、お豆の販売はしていないんです」「そうなんですね、残念…すごくおいしかったから」「本当に?ありがとうございます」

彼女の申し訳なさそうな顔が、ふっと明るくなった。

「ここのブレンドは、ブラジルとコロンビアと、あと少しほかのコーヒー豆を混ぜているんです」
「へえ!わたし、ブラジルが好きで結構よく飲むんです。それでいいなと感じたのかな」
「わたしもブラジルが好きで!」

彼女が笑った。それはお店のスタッフというより、一人のコーヒー好きの笑顔と呼べそうな顔だった。

彼女の年齢も出自もわからないし、家族がいるのかとか、普段どんなことが好きなのかとかもわからない。だけど、あ、この人と仲良くなれるかも、と思った。錯覚かもしれないけど、この人と気が合いそう、って刹那に思った。

わたしはあまり、好きなものについてひとと共有するのが得意ではない。自分の好きなものや趣味について、親しいひとが相手であっても特に語ろうとは思わないし、一緒に楽しみたいともそこまで願ったことがない。

だけど、同じコーヒーの味が好きだというのは、いいな。そう思った。本当は、もう一言二言くらい語り合ってみたかった。

そこへおじいさんたちが割り込んできて、また雨が降るかもしれないだの、明日は暇かもしれないだの、楽しそうにしゃべりはじめた。

わたしは笑って、ごちそうさまでした、とお店を後にした。また近いうちにコーヒーを飲みに、彼女に会いに来よう、と小さく心に決める。

開け放された扉から外に出ると、さっきまでの雨が嘘みたいに陽が差していた。


ご覧いただきありがとうございましたᝰ✍︎꙳⋆

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