思えば、38歳の女性に酷いことを言ったものだ。全然、やさしくなんかない…
昨日、お父ちゃんの記事を書いた。
途中で、お母ちゃんのことを何度も思い出した。
お母ちゃんの実家に行くと、お母ちゃんのお兄さんやお姉さん(伯父さんや叔母さん)は、みんな、モンゴル系の顔だった。
一重瞼で腫れぼったい目をしていて、口は小さめだが、唇は分厚い。
今、当時の記憶映像を脳内で確認してみると、松本清張さん似の伯父さんや
朝青龍さん似の伯母ちゃんがいっぱいいる。
脳内の記憶映像の中に、松本清張さん似のオバチャンがいるぞと思ったら、それは、お母ちゃんだった。
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お母ちゃんは、お母ちゃんの姉たちの「目」と「耳」を気にして生きていた。
たぶん6、7人兄妹。お母ちゃんは末っ子。
まだ小学校に上がらない幼い時に、お母ちゃんのお母ちゃんが亡くなった。
2人目のお母ちゃんが現れて、こき使われ、さんざんイジメられたという。
腹違いの弟や妹が生まれると、イジメがエスカレートしたとも聞かされた。
「私だけ、小学校に行かせてもらえず、野良仕事ばかりやらされたの。
だから、お母ちゃんは字が読めず、悔しい思いをイッパイしてきた。
お弁当にまで差を付けられて、私のお弁当には半分も入ってないの…」
そう、何十回も聞いた。
「私は不幸の星に生まれたの」
これも、何十回も聞いたセリフだ。
お母ちゃんは、自分を認めない姉たちに、「どうだ!」という結果を見せつけたい、そう思って生きていた。
それを、幼いお姉ちゃんと僕に、何度も、懇々と説いて聞かせるのだった。
お姉ちゃんは、ある意味、英才教育を受けたみたいな結果を出した。
成績1番を期待され、𠮟咤激励され、見事それに応えた。
第一子というのは、親の期待に応えるものだと聞く。
お姉ちゃんは勉強に励み、体育以外オール5を、小中高ず~っと継続した。
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僕は、ありがたいことに英才教育の対象にならなかった。
お母ちゃんは、僕を、猫可愛がりした。
子供の頃の僕には、『鏡を見る』という習慣がなかった。
昭和40年代の、ド田舎の中のド田舎では、カメラを持っている人なんて、ほとんどいなかった。つまり、写真を見る機会が、僕には無かったのだ。
ある日、小学6年生のお姉ちゃんが、「私はブスで、…悲しい」と言った。
確かに、お姉ちゃんは美人ではないだろうけど、ブスということもない。
僕は、そう思っていたのだ。
お姉ちゃんの顔は見慣れていたし、何の違和感も抱いていなかった。
「この、ぶ厚いタラコ唇が大嫌い!」と、お姉ちゃんは辛そうに言った。
僕は、タラコ唇という言葉をそのとき初めて聞いたし、唇が厚いとか薄いとか、そんなことは考えたこともなかった。
「じょーじ。…あんたポカンとしているけど、同じだからね!」
「…へ?」
「あんたもブサイクだからね!」と、お姉ちゃんはキッパリと言った。
それから僕は、ときどき鏡を見た。
遠足のときの写真も見た。
そこには僕の思っている僕ではない、変な顔の僕や、変な姿勢の僕がいた。
お母ちゃんの親戚の、松本清張さん似の伯父さんや、朝青龍さん似の伯母さんを思い出した。
僕も、そっち系の顔だと、自覚することになってしまった。
そして僕は、それまで以上に、意識した上で、鏡や写真を見なくなった。
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僕は、ハンサムなお父ちゃんがブスなお母ちゃんと結婚したことを、不思議に思うようになった。
その謎が解けたのは、若いお母ちゃんの写真を見た時だ。
古いアルバムを、お母ちゃんと一緒に見ていて、たぶん20代前半のお母ちゃんを見つけたのだ。
「これ、お母ちゃん?」と聞くと、そうだという答えが返ってきた。
「ああ、これなら分かる。やっと分かった」と、僕は、心の中を言葉にしてしまった。
「なに? どういうこと?」と、お母ちゃんが聞くので、
「ずっ~と、何でお父ちゃんは、お母ちゃんと結婚したのかな、って思ってたんだ」と、僕は、これまた素直に答えてしまった。
「なに? 今のお母ちゃんなら結婚しない、という意味?」とお母ちゃん。
「うん。この写真(若いお母ちゃん)なら、ギリセーフだね」と僕。
僕は10歳。素直すぎる10歳だった。
このとき、お母ちゃんは絶句した。
怒るのではなく、ひどく悲しんでいた。
1秒ごとに深く、メチャクチャ落ち込んで行くのが僕にも分かった。
ここで、やっと僕は、僕の発言がマズかったと知ったのだった。
迂闊な発言を悔やんだ。
しかし、時すでに遅し。リカバリーの言葉は見つからない。
当時、お母ちゃんは38歳。
当時、お母ちゃんは、「女」でもあったのだ。
メッチャ凹んでたなぁ。
本当に、申し訳ないことを言ってしまった。
この場合、なぐさめの言葉を言うと、傷に塩を塗ることになる。
だから僕は、謝りたくても謝れなかった。
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2022年12月30日。
お母ちゃんは天国へ旅立った。
前日、お姉ちゃんが危篤を知らせてくれた。
「老衰で、この2~3日でしょうって、お医者さんが…」
2~3日もたず、翌朝、お母ちゃんは眠るように息を引き取った。
お姉ちゃんからの連絡は、朝10時頃だった。
僕は、お母ちゃんが逝ったのは、9時18分くらいだと思っている。
その時刻に、なぜか僕の目から涙が1つ、こぼれ落ちたのだ。
岩手県では、通夜→火葬→お葬式 という順。
僕は、社会人になり、それが一般的ではないと知る。
お母ちゃんの通夜は、大晦日や元日を避けて、1月2日。
火葬は3日と決まった。
盛岡で、通夜と火葬。
そこから100キロメートル離れた、宮古市の菩提寺に移動。
5日がお葬式。
僕は、火葬への参加を選んだ。
お葬式には、弔電を送った。
実際の弔電をコピペする。(名前だけは仮名)
これを、電報の係りの人に、読み上げ説明するのは恥ずかしい。
でも、覚悟を決めて挑むことにした。
「電報って、何番だっけ?」と思い、ネット検索しようとして、その時になって、「あ、今どきはネットで申し込めるかも」と気がついた。
文字数制限があって、たぶんこれがギリギリだったと思う。
推敲で、初稿の8割を削った。
人を介さないのは、ありがたかった。
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四十九日が過ぎるまで、お母ちゃんは、しょっちゅう我が家に来た。
愛知県のマンションにだ。
僕の寝室の照明が突然消える。
シーリングライトだが、蛍光灯ではなくLEDだ。まだ5年も経っていない。
消えたまま放って置くと、少しして照明が点いた。
これが何度も繰り返された。
誰もいないトイレの水が流れる。
これも数回あった。
夜、誰もいないリビングから物音がした。
これも2~3回あった。
僕は、全く怖くない。たぶん、お母ちゃんだから。
なんなら姿が見えたって怖くない。歓迎する。
この不思議な現象を、妹にlineで教えたら、
「じょーじ兄ちゃんの所なら、お母ちゃんが行くのは納得。
お母ちゃんにやさしいの、じょーじ兄ちゃんだけだったから」
と返ってきた。
「お母ちゃんが1番好きなのは、じょーじ兄ちゃん」なら分かる。
自覚もしている。
僕が、やさしかった?
これは謎だ。
長男なのに、自由に風来坊してばかりの親不孝者だ。
まあ、妹の貴重な意見だし、妻に教えておこうと思った。
「ゆかりちゃん、見て。ほら。僕って『やさしい』らしいよ」
「ふんっ! あんたは姉弟にまで外面だけはイイんやな」
と、ゆかりちゃんは、鼻を鳴らして言った。
おしまい