第330話 この話は、どうしても泣けてしまう。相田みつをさんの『高橋先生』
昨日の記事を読んで、ゆかりちゃんは、
「ああ、ごめ、、、ありがとう」
「んで、ヴェネチア ランデヴーが美味しいんやて~! あれが!、わたしは食べたいのよ~!! 2個セットなら送料無料でしょ。1個だと、送料いくら? わたし1個分のお金出すから、だから聞いてから注文してよね、ったく~。あ、あと、ドゥーブルフロマージュ、名古屋駅で売ってるんやて~(ニヤリ)」
と言った。
【ありがとう】の、10倍も責められた。ニヤリ付きで。
当然だが、僕は、笑顔だ。
さて、今日は、僕が大好きな、相田みつをさんの、作品ではなく、作品集の中の【文章】を紹介したい。
相田みつをさんの作品集『一生感動一生青春』の中の、一節だ。
◆研修に引用し、僕は、何十回と読んだ
昔、新人研修に、僕は、この『高橋先生』の話を読んだ。この話を引用して、新人に訴えたいことがあったのだ。
それは何か。
・・・忘れた。
目的は忘れたが、何十回と読んだので、内容は、ほぼほぼ憶えている。なので、あえて作品集を確かめずに、僕の記憶を書く。
正確に知りたい方は、作品集『一生感動一生青春』を読んでいただきたい。
相田みつをさんの作品集は、作品は、もちろん素晴らしい。そして、作品以外の、相田さんの文章が、とても【深い教え】で満ちているのだ。
その文章量も、かなり多く、読み物としても、満足できる1冊となっている。
◆「高橋先生」の概要(じょーじの記憶)
高橋先生は、(たしか)国語の先生だ。生徒たちから「おやじ」と呼ばれていて、すごく慕われている先生だ。
怒ると、おっかないから、「カミナリおやじ」でもある。
高橋先生は、授業中に良く脱線する。その脱線が、面白く、そしてタメになる。高橋先生は夢中になると、脱線で1時間の授業を全部使ってしまうことも、しょっちゅうだった。
脱線の名人だったのだ。
相田みつをは、今でいう高校生。そして、テストが近づいていた。
生徒にとっては、テスト範囲は『狭い』方がありがたい。生徒たちは、高橋先生の【脱線】に期待した。
悪友に、「相田は、おやじのウケも良いし」と、そそのかされて、授業中に、何か、授業とは関係のない質問をする役目を、相田みつをは押しつけられた。
というか、おだてられて、調子に乗って引き受けたのだ。
高橋先生の授業が始まると、計画通りに相田みつをは、授業に関係ないことを質問した。
高橋先生は、その質問に食らいつき、滔々と語り始めた。
相田みつをは、(良し!)と思った。
そして、近くの悪友に小声で言った。
「引っかかった。これで1時間持つ」と。
この瞬間!
「バッカもーん!!」
教室の窓ガラスが、震えるような大音声が響き渡った。
「人に質問しておいて、私語をするとは、何ごとだ~~~!! 相田は授業終了後、職員室まで来い!!」
相田みつをは思った。
(しまったぁ~)と。
尊敬している、大好きな高橋先生を怒らせてしまったのだ。その後の授業も、まったく耳に入らなかった。
授業後、相田みつをは、恐る恐る、職員室へ入っていった。
「あの、、、高橋先生」
「ん? 相田、どうした?」
「職員室へ来なさい、とのことでしたので、来ました」
「ん? ああ、あれか。あれはもう良い。あの時、お前の顔には『悪かった』とハッキリと現れていた。反省したのだから、もう良い。終わったことだ」
「・・・」
「もう済んだことだ。クヨクヨすることはない。もう良い。帰れ」
それでも、相田みつをが立ちすくんでいると、高橋先生は、
「相田。お前は正直だ。お前は、そのままでイイ。その正直さを、大切にしろよ」
と言って、やさしく、手で「ポン」と、相田みつをの肩に触れた。
それで、はじかれたように、相田みつをは動き出し、先生に一礼して職員室を出た。
叱られたのに心が温かくなって、相田みつをは、流れる涙をこらえられなかった。
教室に帰るが、悪友たちは、相田みつをが、よっぽど厳しく叱責されたと誤解して、誰も声をかけてこなかった。
◆書いてて、僕も、うるうる
なんって、素敵なエピソードなのだろうか。
高橋先生、最高やん!
純粋って、イイなぁ。
正直って、イイなぁ。
なぜか、この話、毎回泣けてくる。
研修でも、いつも読んでて、涙声になったなぁ。
◆そのままでイイ
高橋先生は、そのままの、ありのままの、相田みつをを、ちゃんと見た。
そのままを肯定した。
そのままの、ありのままの、相田みつをを受け入れた。
岸見流アドラー哲学では、これを『尊敬』という。
尊敬とは
人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである(エーリッヒ・フロムの言葉)
引用:『幸せになる勇気』自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ
著者:岸見一郎、古賀史健
岸見流アドラー哲学では、僕たちが言う『尊敬』を、「それは尊敬ではない」と言い切る。
僕たちは、憧れたり、あるいは目標とする、そんな歴史上の人物や、偉業を成し遂げた、政治家や事業家などを、『尊敬』の対象とする。
岸見流アドラー哲学では、それは尊敬ではなく、『恐怖』、『従属』、『信仰』の、いづれかだと言うのだ。「相手のことを何も見ておらず、権力や権威に脅え、虚像を崇めて眺めているだけだ」と言うのだ。
たしかに…、と思った。
僕は、織田信長を尊敬していると思っていた。
が、織田信長の、【真実】を、僕は知らない。「こういう人物だったのではないか」という、歴史学者や歴史小説家の【仮説人物像】を尊敬しているのだ。
その人物像が、正しいのかは、誰にもわからない。
わからないが、当たっている確率は低いだろう。なんせ、歴史学者の数だけの歴史観があり、歴史学者の数だけの人物評があるのだから。
それが【歴史】ではないか。
これは、「妄想を尊敬している」と、言っても過言ではないだろう。
◆尊敬
僕は、岸見流アドラー哲学の『尊敬』を、僕自身に取り入れようと思う。
その人を、そのまま見る。ありのママに見る。
先入観はご法度だ。「男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」だ。
そして、その人は、唯一無二なのだ。
◆〆
最近、何村に居るのか、ちょっと所在のわからないゆかりちゃん。
そのゆかりちゃんは、きっと、こう言うだろう。
「ふふん。はたして、傲慢村のじょーじに、その『尊敬』が、実践できるかなぁ~( ̄▽ ̄)ニヤリ」
「続くかなぁ~( ̄▽ ̄)ニヤリ」
ふふふ。
僕は、そんなゆかりちゃんが、そのままの、ゆかりちゃんが大好きなのだ。
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