攻撃してくる人を、どう解釈するか
チェーンナーさん、雅樹(かつお)さん、shogoさん、しんちゃん、の4名が主催する勉強会に参加しました。
勉強会は、noteでの参加企画です。
リアルでお会いした訳ではありません。(会えるなら会いたい方たちです!)
詳しくはコチラ ↓
記事を書いて参加したのです。(これ ↓)
「あっ。この視点が無かったなぁ」
そう思ったので、今日は、補足記事になります。
・欠けていた視点
僕は先の記事で、『嫌なことを言う人』の定義を、
としました。
「1つ、抜けている」と思ったのです。
それは、
僕を、攻撃してくる人、です。
攻撃とは、
僕が、56歳という年齢だからでしょうか。
最近、ほとんど攻撃されません。
僕を攻撃するのは、妻のゆかりちゃんくらいです 笑。
とはいえ僕も、攻撃された経験はあります。
最近も、小さな攻撃を、ゆかりちゃん以外からも受けています。
僕は、
①攻撃に対して、どう解釈しているのか
②攻撃に対して、どう対処しているのか
この2点を解説いたします。
・攻撃、そのものの解釈①
攻撃された、と思ったときに、いくつかのパターンがあると思うようになりました。
ごく最近、そう思うように変わったのです。
僕の場合、55歳にして初めて得た視点です。
例を上げます。
が、考えられます。
そのときの僕は、実は、①よりの②と、反射的に解釈しました。
ただ、発言者のWさんとは良好な人間関係を築けていると思っていたので、「ムッ」としたものの顔には出しませんでした。
顔には出さずに、心の中で、
と思考しました。
そして即、0.01秒後に、
と、追加での思考が浮かびました。
その3分後に分かったのですが、
Wさんの発言の真意は、①②③の、どれでもなかったのです。
「補充した消耗品が、悪意のあるお客さまに盗られているかも」
「明確な証拠がないし、会社幹部の指示は『静観』です」
という朝の情報を、僕がド忘れしていたのです。
Wさんの発言の真意は、
という、愛溢れるモノだったのです。
僕は、
ムッとする顔をしなかったことを、
「それくらい、Wさんがササッとやってくれてもイイじゃないですか」などと言わなかったことを、
心から、ホッと胸をなで下ろしたのです。
(本当に、顔に、出ていなかったかな?)と、不安にもなりました。
たとえ一瞬でも、心の中であっても、少しムッとしたことを恥じました。
申し訳なく思い、反省しました。
攻撃、そのものの解釈をまとめます。
結論です。
僕は、「ちょっと待てよ。攻撃とは限らないぞ」と解釈しています。
自分は、攻撃と感じた。
でも、相手の真意は、
と、必ずしも攻撃とは限りません。
相手は攻撃じゃなったのに、攻撃と勘違いして怒った(報復)した人は、それを正当化します。
相手の「言い方が悪い」とか、
「後づけて言っているだけで攻撃に決まっている」とかが、代表例です。
引っ込みがつかなくなっているし、そう解釈した方がラクだし…。
イラついたのは事実だし…。
と、こんな心の手抜きをやりがちです。
まだ、真意が違っていたと分かったのならイイ方です。
分からないまま、つまり、「攻撃された」と勘違いしたままのケースも大量にあると思います。
・攻撃、そのものの解釈②
解釈②は、結論から書きます。
結論は、
攻撃と愛が、同じ言葉だったりする
です。
これが結論です。
あなたは、いつも口臭が酷い友人に、「口、クサイよ」と言えますか?
言えるのは、
その人をイジメたい人と、
その人を真に愛している人、だと思います。
また、たとえイジメであっても、そのイジメがキッカケとなって歯医者に行ったり、歯磨きをキチンと行なうように変わるのであれば……?
将来、感謝することでしょう。
あまり賛同は得られないかもしれませんが、
攻撃をする人って、愛のある人 の場合が多いと思うのです。
ただ、『愛のある人』ではあるのですが、ことはそう単純ではありません。
・そこに「愛」はありそうです
例えば、マスクしろ民間警察 の方々。
その方々は、「マスクをするのが正しい」と思い込んでいます。
周りの人のために(愛のある思考)、「オイ、君、マスクをしたまえ」と注意する。イコール、愛のある行為、と言えます。
指摘された人がルール違反の場合でも、ルール違反ではない場合でも、
前者なら「ルールを守れ」という正義の行為で、
後者でも「マナーを守れ」という、やはり正義の行為です。
逆に、頑なにマスクしない 方々。
その方々は、「マスクする、しないは、個人の自由だ」と思い込んでいます。
周りに忖度するのは、自由への冒涜なのです。
自由を守ろうとする愛ある思考で、イコール、愛ある行為、と言えます。
共通点は、自分自身を「正しい」と思い込んでいることです。
・愛はあるが…
そこに愛はあるのですが、自己愛 かもしれません。
自分を愛し、自己肯定感が強すぎて、良かれと思って、
その人のためになる、と信じている。
世の中のためになる、と信じているのです。
確信犯 の正しい意味は、「正しいことをしていると確信して犯行に及ぶ者」です。
「悪いことと知りながら犯行を犯す者」ではありません。
言ってしまえば、最近多い(らしい)、
論破合戦や、
論破オジサンや、
SNSでの誹謗中傷など、皆、確信犯です。
正しいと信じての行為です。
愛もあるのでしょう。
しかし、それは歪んだ愛です。また、狭すぎる愛です。
想像してみてください。
あなたの思考や行動を、変えようとする人です。
でしょ?
でしょ?
・大事なポイント
ここで大事なポイントに触れます。
あなたが、「コレが正しい」「これこそが正しい」と思うのは自由です。
つまり、あなたと反対意見を「正しい」と信じる人がいても…、
ですよね。
あなたの反対意見の方は、その反対意見を「正しい」と信じているのです。
自己の意見の正当性を訴えるのだけでは、
間違っている(と、あなたには見える)反対意見者と、
同じ穴の狢ですよね。
似た者同士 とも言えるでしょう。
大丈夫でしょうか?
あなた、同じ穴の狢になってはいませんか?
・誰もが自分の意思で変わりたい
自分の思う「正しさ」を、「正しい」と思いこむのも、信じるのも構いません。あなたの自由です。
相手が、「議論しよう」「どちらの意見が正しいのか、徹底的に論じよう」という場合はOKです。
ディベート大会の場合もOKです。そういう競技ですから。
でも、一般的に、反対意見の相手って、
自分の意見を変えたくない人ですよね。
もしかしたなら、近未来(15分後とか、明日とか、来週とか)に、
意見を変更するかもしれませんが、でもそれは、
自分の意思で変更したいハズです。
少なくとも、あなたに論破されて変更したい、とは思っていません。
人は、自ら変わることは受け入れて、ときに、それを望みます。
成長もその1つです。
成長も変化です。
でも、変え、られたくはない。
変わるのと、変えられるのは、ぜんぜん違います。
SEXとレイプと同じように異なります。
・なぜ、じょーじは言い切るのか
なぜ僕は、偉そうに、こんなことが言えるのでしょうか?
妻の、ゆかりちゃんは分かるでしょう。
僕は、つい最近まで、そういうヤツだったからです。
愛がありました。
自分を愛していたし、
努力重ねて生きてきた自負もあり、
自己肯定感が高かった。(今も高いです)
良かれと思って、妻のゆかりちゃんを変えよう、としたのです。
僕の信じる、「正しいこと」を訴えました。
変わって欲しかった。
かなり、長くなってきたので、
続きは明日、書きます。
・続きの記事 ↓
僕は、ゆかりちゃんが大好きです。
チャオ!