恋の賭け、成立条件緩和中【第6章】
第6章 2013年 平成25年
1.ひまり もうすぐ33歳 いりこ出汁
3月
「最後の日だから、うなぎでも取ろうか?」と、長縄さんが言った。
長縄さんは、私の住むアパートの大家さんで、たぶん70歳くらいで、スワローズの応援と盆栽が趣味なのだ。
アパートを数棟所有している、いわゆる地主さんだ。
「長縄さん。逆に、最後の日だから、お願いがあるの。私、奥さんのお味噌汁を習いたいのね。あの上品な味を、沖縄に帰ってから母や友達に作ってあげて、ビックリさせたいのさ~。一緒に作ってかまわないか、奥さんに聞いてもらえませんか?」
「へ? 味噌汁? そんなんでイイのかい?」
* * *
私は、長縄さんご夫婦に、とても可愛がってもらった。
私は「東京のお父さん」「東京のお母さん」と言って甘えたし、きっと長縄さんご夫婦も、私のことを「娘」と思って接してくれたと思う。詳しいことは聞けなかったが、長縄さんご夫婦には、お子さんがいなかった。
私は私で、小さいときに両親が離婚して、母の実家で育てられた。母は仕事と政治活動とに、生き生きと飛び回っていたから、私は、オジイとオバアに育てられたのだ。
だから私には、オトウの記憶が、ほとんどない。
私は、長縄さんに遠慮することなく、オトウのように接した。甘えさせていただいた。
キッカケは、台風だった。
7~8年前、大きな台風が関東を通過して、東京にも大きな爪痕を残したのだった。
その前々日の夜、2週間の海外ツアーから帰国した私は、翌日の1日をほぼ、泥のように眠って過ごした。外出することもなかったし、部屋にあった僅かな食料は、ポテトチップスを含め、全て食べつくしていた。
スーパーに行こうと思い、外に出て、私は驚いた。雨や風の存在には、窓を叩く雨音で気づいてはいたけれど、その強さと激しさは想像以上で、私は、一旦部屋に戻ったのだ。すぐ近くの、ローソンに行くことさえも躊躇った。
結局私は、空腹に耐えられなくなって、意を決しローソンへ向かったワケだが、風雨はより激しさを増していた。ビニール傘は、ほとんど役に立たず、全身がズブ濡れになった。
コンビニの中に、私は、飛び込んだ。カップ麺、冷凍食品、飲み物、スナック菓子を、大量に購入したら、コンビニの大の袋が2つ、パンパンになったのだった。
たかが数分の帰り道でも、コンビニ袋が2つもあり、かつ、さすことをあきらめたビニール傘が、時おり強風で膨らみそうになり、ただ歩くだけなのにとても難易度が高かった。
やっとの思いでアパートに着くと、長縄さんが物置き小屋の前で、暴風雨と闘っていた。
長縄さんご夫婦の住む母屋と、私の住むアパートの間には、小さな物置小屋がある。良く見かけるアルミ製の物置ではなく、木で造られた、ログハウス風の味のある物置き小屋だった。
アパートの清掃道具や、長縄さんの趣味の、盆栽に関わる土や肥料なども保管してあって、その小屋の扉が壊れ外れかけていたらしい。
もの凄い暴風雨の中、長縄さんはたった1人で、物置の中の物を暴風雨から守る、応急措置を行なっていたのだ。私は、持って歩く必要のなかったビニール傘と、大切な食糧を部屋の玄関に置いてから、長縄さんを手伝うために1階へ降りて行った。
その頃は、見かけた時に挨拶を交わすくらいのお付き合いだったので、長縄さんは、何度も何度も、私の援助を拒んだ。
「濡れるから、気持ちだけで充分だ」とか、「危険だから、頼むから部屋に入ってくれ」と、繰り返し言った。
「沖縄出身だから、台風には慣れっこなんです」と、私は大声で言った。
後半は、怒鳴っていたかもしれない。
その応急処置を1人で行なうのは、風雨がなくても困難な内容だったと、私は思った。支えたり、押さえたり、引っ張ったりする、相方が必要な作業だったのだ。
台風の翌日。長縄さんの奥さんが、お礼にと、ミカンをたくさん持ってきてくれた。
奥さんは長縄さんより、ずっと若く見えた。身長は私くらいで小さいけど、着物姿がとても美しかった。上品なのに親しみやすい雰囲気で、やわらかい笑顔が印象的だった。
私も、ツアーから戻ったなら、長縄さんご夫婦にお土産を持参するようになり、すると今度は、夕食に招かれるようになった。
ツアーが終わり、私が日本にいるときは、ほとんどと言っていいくらい、長縄さんのお宅で、晩ごはんを頂くようになった。
* * *
「お出汁は、うちはイリコなのね。こうして頭と内臓を取るのよ」
「イリコ出汁って、はじめて~。鰹節しか使ったことないんです」
奥さんが快諾してくれて、私は、お味噌汁の作り方を教わっていた。ご主人はリビングのソファーに座ってテレビを観ている。夕方の情報番組で、スポーツコーナーになったことがテレビの音声と、長縄さんの「おっ!」などのリアクションで、それと分かった。
奥さんが小声で、「今日は勝ったから、ご機嫌なの」と、私の耳元でささやいた。今日は土曜日だから、スワローズの試合は、日中に行なわれたのだろう。
私は、奥さんの手順をメモ帳に記入しながら、「奥さんのお味噌汁は、上品な、旅館の味がするんです~」と言った。
「そんな、普通のお味噌汁だから」と、奥さんは言った。
「奥さん、赤味噌の量は、どういうふうに憶えればイイですか?」と、私は質問した。
奥さんから、返答がなかった。
奥さんは、身体と顔を少し斜めにしていて、私から表情が見えなかった。
奥さんの、肩が震えていた。
同時にリビングから、「おい。絶対に泣くなよって、あれほど言ったのに……」というご主人の、とても弱弱しい言葉が、テレビの音声に混じりながらも、かろうじて私の耳に届いた。
私は、奥さんをナナメ後ろから抱きしめ、頬を寄せた。
「奥さん」と言った、私の声も涙声になっていた。
「……ったく」という声がして、私は、リビングの長澤さんに顔を向けた。
長縄さんは新聞を見ていて、顔は、新聞紙で見えなかった。
私は、あることに気づいて、奥さんの肩を、チョンチョン、と指で突っついた。
奥さんと目が合ったので、私は小声で「逆さま」と耳打ちして、ご主人の新聞紙を指で指示した。
奥さんと私は、また目を合わせて、そして、笑い合った。
「あなた、新聞、逆さまよ」
「あははは、漫画かドラマでしか見たことなかったさ~。長縄さん、最高です!」
「お、あ、お」と、長縄さんが動揺した。新聞紙を直そうとしかけて、今さらと思ったらしく、あきらめて新聞をたたんで、テーブルに放った。
目が赤く、鼻水も片方の鼻穴から流れ出て、蛍光灯の光を反射していた。
それを見て、また私と奥さんは、肩を叩きながら笑い合った。
長縄さんも、苦笑いして、ティッシュで鼻をかんだ。
* * *
ダイニングテーブルで食事を終えて、「このまま飲もう」と、長縄さんが言った。長縄さんは、私が初めて作ったお味噌汁を「美味しい」「上等だ」と褒めてくださった。
お酒は、わざわざ私のために泡盛やシークワーサーを用意してあって、この優しさにも、私は胸が熱くなった。
「明後日、帰るのよね」と、奥さんが言った。
「4月1日から、再出発するのがイイかなって思って」と私は答えた。
「それが、エイプリルフールの嘘ならいいんだが、本当なんだよなぁ」と、長縄さんが言った。
「私たち、必ず沖縄に旅行に行くから。ひまりちゃん、そのときは絶対に会ってね」
「もちろんです。沖縄の案内、私がします。絶対に」
「ところで、ひまりちゃんは、彼氏って本当にいないのか? 良い青年がいるんだよ、本当に。あれだぞ、ハンサムだとか、そういう意味の良い青年ってことではないんだ。別に、ブサイクではないし、まあ、顔は普通だ。そして、ココとココが良いんだよ。精神と頭が、本当にイイんだよ」と言って、長縄さんは、心臓を拳で叩き、頭を指でさした。
「あなた、今さらですよ。ひまりちゃんは沖縄に帰っちゃうのだから」
「うん。いやぁ、実に良い青年なんだよ。ひまりちゃんにこそ、ふさわしいと思うんだがなぁ」
「長縄さん、奥さん。いつも本当にありがとう。私のことを大事に思ってもらって、本当に嬉しい。いつも私に『かわいい』って、たくさん言ってくれて、お世辞でも嬉しかった。感謝しても、感謝しきれないくらいに、デージ嬉しかったです」
「あら、お世辞じゃないわよ。ねぇ、あなた」
「ああ、全く、お世辞なんかじゃないぞ。んん? ひまりちゃんは、自分は可愛いと、そう思わないのかい?」
「長縄さんのおかげで、ときどき『あ、可愛いかな』って、思ったりしましたよ。でも、このとおり、クルクルの天然パーマだし、目はパッチリ二重じゃないし、背も低いですからねぇ~」
「本気で言っているの?」
「驚いた~。ひまりちゃん、部屋に鏡、なかったのか?」
「いや、鏡は、ありましたけどぉ~」と、私は苦笑いした。
「その髪型も、ボブパーマ、っていうんでしょ。私も真似てみたくなって、このまえ美容師さんに教えてもらったの。とってもチャーミングよ。ねぇ、あなた」
「ああ、とても似合っている。目だって、奥二重だよね」
「そうそう、私、奥二重に、ひまりちゃんの目になりたかったわ~」
「ホントですか? お世辞ですよね?」
「まだ言ってるの? ホントよ、ひまりちゃん」
「同級生にもし、ひまりちゃんがいたなら……。逆に、高嶺の花すぎて、僕は、あきらめたかもしれないなぁ」
「まあ、あなた。それじゃあ私は、手ごろな花、……だったってこと?」
「わわ! 大変な地雷を踏んじゃったぞ~。失言、失言。こりゃあ失言で、町内会長を辞任することになっちゃうなぁ」と、長縄さんは、慌てふためいた。
私たちは、また3人で、笑い合った。
2.ひまり ひたすらと、ひたむきと、純粋無垢と
長縄さんのお宅を出て、手を振っていたご夫婦が見えなくなったことを確かめてから、私は足を止めた。iPhoneでLINEを操作し、送信ボタンをタップした。
スナック『縁』で、送別会を行なっていただくことになっていて、ママから「大家さんの家を出たらLINEして」と言われていたからだった。
スナック『縁』は、ここから駅へ向かって歩き、5分と少しの所にある。
途中、ローソンの前を通り、小さな公園の脇を通った。街灯に照らされた桜は幻想的だった。
夜桜って色っぽいな、と私は思った。5分咲きくらいだろうか。年々、開花日が早くなっていて、今後私は、それを沖縄でニュースとして見るんだなぁと思った。
瀬戸さんは、『隊長とゆかいな仲間たちの会』のメンバーも、送別会に呼びたいと言ったが、スナック『縁』は、とても狭いお店だ。全員にお知らせしたなら、人で溢れかえってしまうので、内緒にしてもらった。
佐々木さんに相談して、今後の『ゆ会』は、全て瀬戸夫妻に託すと決定したのだった。
瀬戸さんもむっちゃんも、快く引き受けてくださって、また、今日の送別会にも参加するとおっしゃってくれた。佐々木さんも「参加する」とLINEで知られてくれた。
送別会に参加する、スナック『縁』のスタッフと常連のお客さんたちは、1時間か2時間前に集まって、先に飲み始めていると、ママから聞いている。
私は、スナック『縁』の重いドアの前に立った。このドアを引くことも、もしかしたなら、これが最後になるのかもしれない。そんな思いもあって、私はその重いドアを、またココに来れますようにと願いを込めながら、丁寧に引いた。
カランコロンと、カウベルが鳴った。
と同時に、パンパンという乾いた破裂音が一斉に鳴った。クラッカーの破裂音だった。
「ひがちゃん! いらっしゃい!」
「ひがりゃん、お帰り~!」
「ひがちゃん、今まで、ありがとう~!」
様々な言葉が、私に降り注いだ。クラッカーの紙屑も舞っていた。
すでに、大城さん親子は目を赤くしていて、「早えよ」と、周りに茶化されていた。
「ひがちゃん、今日は、この席だからね」と、わざわざママが、私を真ん中のBOX席までエスコートしてくれた。ママは、スリットが深く入ったセクシーなドレス姿だった。
すぐに、アイちゃんがグラスビールを持ってきて、私に手渡した。
大城さんが、「ひがちゃん、沖縄に帰っても僕たちのこと忘れないでね。悲しいけど、ひがちゃんに幸あれ! カンパーイ!」と音頭をとった。
「カンパーイ!」の声が響き、アチコチで発生した。
私は、たくさんの人とグラスを合わせた。
そして、良く冷えた生ビールを、一気に半分ほどを飲みほした。
「さ~、飲もう飲もう!」と、金子さんが言った。
席に座るとテーブルには、ポッキー、チーズの盛り合わせ、野菜スティックに、酢の物と枝豆、ミックスナッツ、チップスター、生チョコなどが、きれいに盛り付けられていた。
蘭ちゃんが、私がいつも飲む、泡盛のシークワーサー&炭酸割りを、いつでも作れるスタンバイをしていた。
超~至れり尽くせりだ。
「ひがちゃんの送別会ですから、皆さん、今日のカラオケは、無料ですからね~! ドンドン歌って下さいね~!」と、珍しくママが、大きな声で言った。
そうだ、そうだと、大城さんが言って、さっそくデンモクを慣れた手つきで操作している。
「沖縄に戻ったら、何をするの?」とか、「ツアーコンダクターは、もうやらないの?」などと、同じBOXの蘭ちゃんと、大城さんの息子さんが質問をしてきた。
私は、「親友と、会社を作るの。沖縄に来る観光客に、何か、これまでになかった、素敵なサービスを提供したいのさ~」と言った。
「それは、どんなサービスなの?」と聞かれたので、「まだ、ぜんぜん決まってないのよ。良いアイディアがあったら教えてぇ~。メモするから~」と言った。
「送別会のときくらいは、仕事の話はしちゃアカンって~」とか、「出た、仕事人間!」とか、「ワーカーホリックだね」「だから婚期を逃すのさ~」と、両脇のBOX席から、私を茶化す声が飛んでくる。みんな顔見知りで、このようなイジリは、いつもの会話だった。
あえていつも通りにという、愛情のようなモノが、胸を温かくしてくれる。
「みんな、ひがちゃんをいつものようにイジっちゃ駄目。今日は主人公なんだから」と庇ってくれる人もいた。と思ったら、志村さんが、『本日の主役』というタスキを手に持っていて、ニヤニヤしていた。
私は、素直に、本日の主役タスキを、タスキがけした。
「何十人もいた、愉快のメンバーはどうするのさ~」と、その志村さんが聞いてきた。
「沖縄での新しい事業の報告をね、YouTubeとかインスタグラムでお知らせしようと思っているの。お茶会や飲み会などは、幹事の瀬戸さんとむっちゃんが、引き続き仕切ってくれることになりました。って言うか、それって、今まで通りってことなんだけどねぇ」
「へぇ、ユーチューバーって奴か?」と志村さんが言って、
「インスタグラムって何?」と、吉田さんが言った。
「あかんあかん、いつまでもカタイ話しちゃ、駄目だよ~」と、ステージ上で『俺ら東京さ行ぐだ』を歌っていた大城さんが、歌を中断して、カラオケのマイクを使って、エコーの利いた声でクレームを入れた。
私は、手を振って応えた。
右のBOXには、佐々木さんがいた。私の今後のことを、私の代わりに話してくれていた。
同じ役割を、左のBOXでは、瀬戸さんが行なっていた。奥さんのむっちゃんは、その隣にはいなくて、愛ちゃんや蘭ちゃんの手伝いを行なっていた。
ママは、カウンターの中だった。カウンター席には、小松さんと、この店のお客さんの中では若い、金子さんと武田さんが座っている。
「蘭ちゃん、デュエットしよう」と言いながら、大城さんが近づいてきた。ステージでは大城さんの息子さんが、愛ちゃんと、ロンリーチャップリンを歌っている。
蘭ちゃんが、「今日は、ひがちゃんとデュエットしたら?」と言って、『銀恋』を入れた。
私は、大城さんと『銀恋』をデュエットした。
次の、志村さんの『島唄』で、店内の盛り上がりが、1ランク上がった。
その次の、金子さんの『女々しくて』が流れると、店内はカオスと化した。
大城さんが三線を弾き、指笛も鳴らされた。タンバリンやマラカスも使われた。そして、踊り出した。私も踊った。
私は、指定席に帰らず、アチコチにお邪魔して挨拶をし、会話をした。
思い出話に花を咲かせ、未来のことも語った。
小松さんがバービーボーイズを入れて、蘭ちゃんとデュエットをしている。小松さんは、かなり歌が上手で、でも今日は、珍しくリズムに遅れたりしている。
蘭ちゃんのハスキーな声は、いつもながら杏子の声にソックリだった。ちなみに蘭ちゃんは、中村あゆみの『翼の折れたエンジェル』もソックリに歌える。
1度目の『島人ぬ宝』が入れられた。
この店では毎日、『島人ぬ宝』は数回、歌われる。この店の、この店ならではの特徴だ。
私は、店内を1周して、中央の指定席に戻ってきた。
その時、ママが私のところへやって来て、「今日は、最後まで残って欲しいの。そして、できれば、飲み過ぎないで欲しいのね。最後、2人だけでお話したくて」と耳打ちした。
私は、もちろん了解した。ママは、私にウインクをして、カウンターに戻って行く。ママのドレスは、背中が大きくあいていた。キレイな背中だった。
その時カラオケは、アイちゃんの十八番の『フライングゲット』のイントロが流れていた。
それから少しして、小松さんがステージに立った。
小松さんの選曲は、『愛しさとせつなさと心強さと』だった。私は意外に思った。小松さんの好きなジャンルでもないし、しかも女性ボーカルの歌で、その曲は、実は私の十八番なのだ。
小松さんは、味のある素敵な声で歌った。裏声も上手に使っている。
でも、歌詞が一部、違っていた。
「愛しさと せつなさと 心強さと」という所を、
「ひたすらと ひたむきと 純粋無垢と」と歌っていたのだ。
1度だけではなく、その後も小松さんは、
「ひたすらと ひたむきと 純粋無垢と」と、歌った。
私には、心当たりのある歌詞だった。
小松さんは、私のために替え歌にして、歌ってくれたのかもしれない。
私は、ひたすらに生きて、ひたむきに生きて、純粋無垢と言われたことがある……。
順番待ちの曲が5曲くらい入っていることが、モニター表示で分かった。
次の曲は、スマップの『SHAKE』だった。
大城さんの息子さんが「さ~、みんな踊ってよ~、一緒に歌ってよ~」と、マイクパフォーマンスを加えた。
武田さんが、次に歌った『エロティカセブン』も、大いに盛り上がった。
みんなが歌って踊った。
そのとき、大城さんと志村さんが、小松さんを抱えて、店から出ていくのが見えた。
珍しいと、また私は思った。これまで、酔った小松さんを見たことがなかったのだ。少しホロ酔いかなということでさえ、年に1度もなかったと思う。
私と小松さんは、「ざる」と言われていて、基本、飲んでも酔いつぶれたりすることはない。例外を除けば。
私は、カウンターのママに近づき耳打ちした。「小松さん、大丈夫?」と。
送別会が始まる前からかなり飲んでいたのよ、とママは教えてくれた。大城さんのお宅で様子を見て、大丈夫そうならタクシーを呼ぶみたい、とも付け加えてくれた。
私は、小松さんの指定席だった、左端のカウンター席に腰掛けた。
小松さんのウイスキーセットが、そのまま残っていた。
佐々木さんがやってきて「ひまりさん、愛されてますね~。スゴイ盛り上がりだ」と言ってくれた。
私は、このタイミングで「愛されてる」なんて言われて、涙腺のコントロールが効かなくなる予感を感じた。
「佐々木さん、ここに座って、ママを頼みます。私、歌ってくる!」と言って席を立った。
* * *
私は結局、最後は泣いてしまった。
帰る人と握手をして、ハグをした。みんな「また来てね」「また会おうね」「沖縄に行くね」と言ってくれた。
顔を見るたびに、過去のエピソードが映像となって脳内で再生された。
アイちゃんも、蘭ちゃんも帰って、ママと2人だけになった。
L字カウンターの角を使って、私たちは座った。
「みんなで、お金を出し合って買ったの」と、ママはティファニーの小さな紙袋を、私へ差し出した。
「私たちからのプレゼント。開けて、中を見て」と言った。
私は、リボンや包装を丁寧に剥がした。
シルバーのブレスレットだった。シンプルなチェーンブレスレットで、チャームはシルバーのリングが2つ交わっているデザインだ。
高額なことも想像できた。ありがとうと、無邪気に言える金額ではない。
でも、遠慮の言葉がふさわしいとも思えなかった。
「ステキ……」と、私は本心を口にした。
そして、ありがとう。でも、これ高いと思うの、と言おうと思ったが、ママの言葉の方が少し早かった。
「1人1人の金額は、決して高額ではないの。人数が多かったから。この贈り物には、いろいろと頭を悩ませたわ。大きなモノでは、持ち帰るのが大変でしょ。もう、アパートは空っぽなんでしょ」
「そうです。家具も家電も送るのが高くて~。たまたま、隣の部屋に18歳の女の子が青森から越してきて、その子、物が全然なかったから、ほぼほぼ全部上げちゃいました。今の私の部屋は、スーツケース1つと、バッグが1つだけ。最後に、コンビニから実家に送る段ボール箱が1つあって、今は、その段ボール箱がテーブルも兼ねています」
「明後日、あ……。日付が変わったから、明日、月曜日に立つんでしょ。それまで、何もなくて大丈夫なの?」
「大丈夫です。明日は、アチコチに挨拶回りです」
「そうかぁ。……ええと、話を戻すわね。今回のプレゼントは、まず、小さいモノって考えたの。そしてもう1つ。ひがちゃんに、ず~っと身に着けて欲しいって思ったの。なぜか分る?」
「忘れないで、ってことかな」
「そう。私たちのことを忘れないで欲しいの。私たちのことを思い出して欲しいの。これっきり会えないって、私も、そしてみんなも、嫌なの。ここにも、また、来て欲しいの」と、ママは、目を潤ませながら言った。
「必ず来ます」と私は言った。
「小松さんなの」とママが言った。
「私は、香水とかお花とか、紅茶やお菓子など、私だったら嬉しいというプレゼントを提案したわ。大城さんも瀬戸さんも、それで良いという雰囲気だったのね。でも、そのとき小松さんが、『腕時計ってどうかな?』って言ったのよ。『腕時計なら、チラっと見たときオレ達のことを思い出すんじゃないかな』って。
それはイイ考えだってなって、いろいろ考えて、長く使ってもらえるモノにしようって、それで、このブレスレットに辿り着いたのよ。ねえ、ひがちゃん。付けてみせて」
「今ですか」
「ええ。付けてあげるわ」
そう言って、ママが私の左手首に、ブレスレットをつけた。
小さなリングが2つ交わっている。シンプルな素敵なデザインだ。
「チラって見たら、私たちのことを思い出してね」
「はい」と私は応えた。
「今日の小松さん。変だったでしょ? ひがちゃん、分かってた?」
「小松さんが酔ったのって、初めて見ました。分かるって、酔っていたことですか?」
「やはり、分かってなかったのね。小松さんはね。……あの人は、あなたが好きなのよ」
「ええ? まさかや~」
「本当よ。ず~っと前から」
「ママ、一度もそんなこと言わなかったし」
「だって、あなた振るでしょ? 小松さんが想いを伝えても、ひがちゃんが小松さんと付き合うことはないって、私には分るの。だから、私は何も言えなかったわ。言ったって、あなたが困るだけでしょ?」
私は、返答に困った。
「私が、小松さんに想いを伝えないのも同じ理由。あの人は、あなたにしか興味がないし、年上の女は、恋の対象ではないんですって。あ、ひがちゃんは、私のことを気にする必要は、一切なの。私が小松さんを好きになったのは、小松さんがあなたを好きなった、2~3年後だから」
ママは、少し寂しそうな顔をした。
「あの人、今日、替え歌を歌ったでしょ。小松さんは、あの替え歌を毎日歌っていたのよ。ひがちゃんがいるときは、絶対に歌わなかったのだけど。きっと、今日が最後だから歌ったのだと、私は思ったわ」
「え? 毎日、歌っていたんですか?」
「そうよ。ひがちゃんは初めて聞いたでしょ?」
「はい」
「変えられた歌詞、どう思ったの?」
「やはり、私のことだったんですね」
「そうなの。あの人は……。小松さんは、この10年、あなたのことを想い続けていたの。その気持ちを伝えるつもりもなく、でも想い続けていた。
私が、ひがちゃんに伝えたいのはね、あなたは幸せになる義務があるってことなのよ。ビジネスでの幸せではなく、人としての幸せでもなく、1人の女性として、あなたは幸せになる義務があるの。だって、そうでしょ。あなたが女性として幸せになれないのなら、小松さんの想いが浮かばれないんだもの。あの人はフラれるのが怖くて、ひがちゃんにアタックしないのじゃないのよ。きっとね、あなたに迷惑を掛けたくないからなの。あなたに、幸せになって欲しいからなのよ」
「ママ……」と、私は言ったが、その後の言葉が見つからなかった。
「ひがちゃんって、恋に臆病すぎるわ」
「ママ、本当に、ありがとう」と言って、ママの右手を私の両手で包み、そして、やわらかく握った。
私の左手首のブレスレットが、照明の光に、やさしく輝いた。
ママが、ブレスレットを見て、そして、私の目を見た。
「ときどき思い出してね」と言った。
3.ひまり 帰郷
4月1日
朝、目覚めると、部屋には何もなかった。
今日、私は羽田を発ち、故郷の沖縄に帰る。東京での丸12年は、色々なことがあったにもかかわらず、あっという間の出来事だったとしか思えない。
うがいをして顔を洗った。そして、布団を畳む。
家具や家電は、貰っていただける人に差し上げ、残った物は廃棄した。高額な輸送費を出してまで持って帰りたい物は、そんなになかった。ツアーコンダクターになってからは、このアパートで過ごした日より、スーツケースで飛び回っていた日の方が、圧倒的に多かったのだ。
前もって実家に送った段ボール箱の数も、引越し屋さんが「これだけですか」と驚くくらいに少なかったのだ。
家具と家電は、1階に入居した青森から上京した18歳の女の子が、何も持っていなかったので、ほぼ全てを差し上げた。彼女は喜んでくれたし、処分しなければならなかった私も、とてもありがたかった。
敷布団と掛布団は、大家さんの長縄さんが、貸してくださったのだ。
布団カバーは、「洗わなくていい」と奥様が言ってくださって、私は、甘えさせていただくことにしていた。
近くのローソンへ出かける前に、私はメイクを行なう。ポーチなどをバッグやスーツケースに入れてしまおうと思ったからだった。
ロクシタンのチェリーブロッサムの香水を、2度プッシュして、スーツケースに入れた。メイクポーチはバックに入れる。
枕と枕に敷いたバスタオルを段ボール箱に入れる。昨夜は、この箱をテーブル代わりにして日記を書いた。書きにくさよりも、おつな気分の方が上回っていた。
私は、枕を入れる前に、マグカップを出した。マグカップには絵葉書がさしてある。バリ島の、美しい風景写真だ。青い海と空。優雅なヴィラのプールと青い海。夕日が沈むオレンジ色のレギャンビーチ。ケチャックダンスの屈強な男性と怪し気な炎など、5枚の絵ハガキを少し丸めてマグカップに差してあった。
枕を入れてから、再度、マグカップを入れて絵葉書を差し入れた。
布のガムテープを、ちょうど良い長さに切る。2つ、用意した。
テープを箱に入れる。フタをして、テープを十字に貼った。
段ボール箱を抱えて、ローソンへ行き、ゆうパックで実家に送った。
アパートに戻ると、ちょうど良い時間になっていた。
大家さんのお宅へ行き、インターホンを押す。
長縄さんが出てきて、挨拶を交わし、一緒に2階へ上がり、私の部屋を見てもらった。
「布団は、私があとで引き揚げますから、このままで結構です。キレイに掃除をしてくれてありがとう。ハウスクリーニングを入れるから、掃除しなくてイイって言ったのに」と、長縄さんは言った。
私は、アパートの鍵を、大家さんへ手渡した。階段を下りるとき、キャリーケースを大家さんが持ってくれた。東京のお父さんは、最後まで、お父さんだった。
下には、奥様が待っていた。私は思わずハグした。
「ありがとうございました」
「また会おうね。元気でね」
「奥さんも、お元気で」
私はハグをほどき、身体の向きを変えて、「長縄さんもお元気で」と言った。
また、3人とも涙目になった。
私は3度振り返って、手を振った。胸がジーンと暖かくなった。私を覆っていた何かが晴れた、そんな明るく前向きな気持ちになった。
私は、またローソンに寄った。 缶コーヒーとランチパックを買って、公園に寄った。
ベンチに腰掛けた。ここで、遅めの朝食にすると決めていたのだ。
上を見上げた。
青空を背景に、ソメイヨシノが生き生きと花びらを広げていた。満開に見える桜は8分咲きと、誰かが言っていた気がする。
iPhoneを、キャリーケースの上に据えたバッグの、小さな外ポケットから取り出した。通話履歴からメーグーを見つけて、タップする。
「おはよう」
「おはよう、ひまり」
「予定通り13時10分発だから、那覇には午後3時45分に着くから」
「いよいよだね、ひまり。4月1日だけど、ウソじゃないよね?」
「ウソじゃないさ~。メーグー、私は私を大切にするって決めたの」
「どうしたの突然?」
「私は、仕事だけの20代だったでしょ」
「あと数日で33歳だけどね」
「私、30代は恋もする!」
「30代は、もう7年しかないけどね」
「もう~メーグー、そういうツッコミとか要らないから~。それより私って、どう思う?」
「は?」
「まあ、みんな最後だからさ~、花向けの言葉ってやつだった思うんだけどね。何人からも『あなたはカワイイ』って言われてさ~」
「いまさら、何を言ってるの? ひまりは私の憧れよ」
「へ? 憧れ? どこがさ~?」
「そのカワイイ顔、小さくて可愛いし、脚長いし、ボブパーマもとってもチャーミングだし、性格が超~明るいし。私は、ず~っと、ひまりに憧れてたのよ」
「あきさみよー! だってメーグーの方が、断然美人じゃない!」
「私、『綺麗』って言われても、『カワイイ』って、1度も言われたことないんだよ」
「ええ~。さすがにそれは信じられんさ~。エイプリルフールのウソなんでしょ?」
「そんなことない。中学のときも高校のときも、私、何度も言ったよ。そういえば、ひまりは『嘘だ~』って言って、信じようとしなかったね。照れ隠しだと思ってたけど、本気だったの?」
「も~、もっと前に言って欲しかったさ~」
「だから、もっと前から何度も言ってたの。ところで、時間、大丈夫なの? どこかに寄るところとか、ないの?」
「そんなのは、ありません。私は、超~余裕をもって空港に向かう、そういう職業病ですから。途中でうたた寝しても大丈夫さ~」
「うたた寝したら、それはダメでしょ。まあ、とにかく気をつけてね、明日から一緒に仕事をするんだからね。もう、ひまりだけの身体じゃないからねぇ~」
「電車と飛行機で行くんだよ。私は気をつけようがないの。だから『気をつけて』って言葉は、電車の運転手さんとパイロットに言わないと、意味がないのさ~」
「はいはい、電話切るよ。空港、迎えに行くから」
そう言って、メーグーは電話を切った。
私の座っているベンチの前を、ママと5歳くらいの男の子が通った。
「はいはい。もぉ~分かったから」と若いママが言った。
手を引かれている男の子が、「はいは1回でしょ」と、ママに言った。
私は、小さく吹きだしてしまった。
少しだけ冷たい風が吹き、桜の花びらが舞った。
ほんの数枚だけ舞った。
私は、プルトップを引いて、コーヒーをひと口飲んだ。
「まーさん!」
私は、声に出して言った。
エピローグ
祖父江37歳
4月1日
雨どいが外れていた。
青い空に見惚れて、偶然気づいたのだった。
この程度の不具合ならば、下請けの工務店に電話した方が良いだろうと、僕は判断した。
スマホをポケットから出し、電話をした。
「おはようございます。お世話になっています、祖父江です。今、お話して大丈夫ですか? INNOCENCE 2 の雨どいが外れているんです。ええ。2です。そう、新しい方です。正面に向かって右です。西の方……あ、そうだ、写真撮って送ります。はい、お願いします」
僕は、乗ってきた軽バンに戻ろうと思い、真後ろに振り返った。掃除用具を取り出すつもりだったのだ。
アパートの敷地に、小さな車が入って停まるのが見えた。この辺ではあまり見かけることのないフィアット500だった。淡いベージュ色のフィアット500から、やはり、この辺では見かけることのない40~50代の、痩せた渋いオジサンが降り立った。
真っすぐ僕に向かって歩いて来る。
「君を調べるの、大変だったんだぜ」と、その男性は言った。
「ここを見つけるのも大変だった。もっと早く会える予定だったんだが……。祖父江匡亘さんで間違ってないよな」
ぶっきら棒な話し方をする男性だった。しかし、粗野ではない。
浮かんだのは、刑事だろうか、という想像だ。
僕は「ええ」と答えた。
彼は、僕の目の前まで近づき、「ひがちゃんのことだ」と言った。
僕は、考えを巡らせた。
「小宮山ひまりのことだ」と、彼は言い直した。
まさか、事故? いや、事件か?
「あなたは刑事さん、…ですか?」
「ったく。…オレは刑事じゃない。いいか。小宮山ひまりは、旅行会社を辞めた。つまり、もうツアーコンダクターではない」
ひまりさんは何故、会社を辞めたのだろうか。
彼に言うべき言葉が見つからなかった。
そもそも彼は何者なのだろう。
「彼女は、まもなく羽田を発ち沖縄に帰る。言っておくが帰省ではない。アパートを引き払っての帰郷だ」と、と彼が言った。
沖縄。帰省ではなく、帰郷……。
「時間は?」と、僕は彼に尋ねていた。
「13時10分発だ」と彼は言った。
3時間とちょっとしかない。電車と新幹線で向かっても、きっと間に合わない。車じゃ、もっと時間がかかる。
ドン!
僕の腹が小さく爆発した。息が止まり、胃の中の物を戻しそうになった。
彼が、僕にボディーブローを打ち込んだ。
額やこめかみに、変な汗が浮かんでいるのを感じた。
僕の腹にめり込んだ彼の左拳が開かれた。
紙があった。クシャクシャになっている。
彼はその紙を、僕のワークシャツの胸ポケットに入れた。
「そのメモ帳には、小宮山ひまりの携帯電話の番号と、沖縄の実家の住所が書いてある。君に、くれてやる」
彼は、踵を返して、フィアット500に向かって歩き出した。
「挑戦してねぇだけだべ」
「てえしたモノは手に入ってねえべ?」という声が聞こえた。
僕は「駅まで送ってもらえませんか?」と、その男の背中に声を投げた。
彼は、少し考えて、それから「どっちに向かうつもりだ? 羽田か? 那覇か?」と聞いてきた。
「羽田です」と、僕は答えた。
「間に合わんぞ」と、彼は言った。
「そのときは、飛びます」と、僕は即答していた。
また彼は少し考えて、「なら、乗れ」と言った。
僕は、助手席に乗り込んだ。
完