歌い手の「ゆきむら。」さんを「好き」と言っていいのかどうか問題
2月になりました。
今すごく歌い手の「ゆきむら。」さんが気になっています。
私はヒマな時にライブ配信サービスの「ツイキャス」を覗くのが趣味です。
ゆきむら。さんは、ツイキャスで歌を歌ったり雑談配信をしています。低音ボイス女子が大好きな私は、たまにですが、ゆきむら。さんの毒舌あふれる生配信を聴いています。
しかし、ゆきむら。さんは「炎上系」の配信者さんであり、その炎上の仕方がセンシティブなため、簡単に「私はゆきむら。さんが好きです」とは断言できません。
ゆきむら。さんは、大地震が起きた時に自然災害を歓迎するようなツイートをしていました。ひとことでいえば「不謹慎」です。
不謹慎ではありますが、ゆきむら。さんは自分が不謹慎なツイートをしたことを充分に自覚したうえで「善悪」の「悪」を「悪だからダメだ」と即断する風潮に疑問を投げかけます。
「被害者の気持ちを考えろって言われるけど、もちろん考えてるよ」と話すゆきむら。さんからは、考え続けることをやめないことの大切さについて共感させられる部分があります。
ありますけれども。
やっぱり、自然災害に遭遇して苦しい生活を余儀なくされた人や、大切な人の命を奪われた人にとって、自然災害を歓迎するようなツイートは直感的に受け入れることができないものでしょう。
ゆきむら。さんは、1997年に起きた神戸連続児童殺傷事件から強烈な影響を受けたそうです。14歳の男子中学生が複数の小学生を殺傷した事件です。犯人の「酒鬼薔薇聖斗(さかきばらせいと)」こと「少年A」が自分について「透明な存在」という表現を使ったことに、ゆきむら。さんの琴線が引っかかったのです。
少年Aを崇拝するような言動には、さすがに「被害者やその家族の気持ちを考えろ」という批判が集中します。当然です。
私自身、少年Aの著書である『絶歌』をはじめ、少年Aの両親が記した『「少年A」この子を生んで……』、少年Aに殺害された児童の母親である山下京子さんによる『彩花へ「生きる力」をありがとう』などの書籍を読み、加害者、加害者家族、被害者家族それぞれの心境に触れさせていただきました。
この事件のような哀しい出来事が二度と起きない世の中になることを願う気持ちが自然に湧きました。
で、です。ゆきむら。さんが言いたいのは、ここのことなんじゃないかと思うのです。
「善悪」の「善」の感情が自然に湧いた自分に安心して、ぬるま湯に浸かっちゃってるんじゃないの?
ねえ、ほっとした?
善悪について「正常」で「常識」的な判断ができた自分に、ほっとした?
でもさあ、もし自分が少年A側に共感しちゃってたら?
もし直感が「異常」で「非常識」的なほうに魅了されちゃったとしたら?
『Peep TV Show』という映画があります。
「9.11の同時多発テロの映像を見て"美しい"と感じてしまった男、長谷川。自らのリアリティを見失ってしまった彼は、盗撮をすることで他者を発見し、自らのリアルに触れようとしていた」
そんなお話です。
そして私は、この映画が大好きです。
2001年にアメリカで起きた同時多発テロ事件。ワールドトレードセンタービルに航空機が突っ込み爆発し、ビルが崩壊した映像はあまりにも衝撃的でした。
テロ行為という凶悪犯罪が許されるはずがありません。
だけど…
テレビのこちら側にいる「安全な自分」が眺める地獄絵図には、確かに圧倒的な「リアル」がありました。
かつて、こんなに食い入るように何時間もテレビを見続けたことがあっただろうか?
私はあの映像を美しいとは思いませんでしたが、あの映像を美しいと思ってしまった人がいるんだ、ということは理解できました。
じっさいには何千人という人が一度に亡くなっているのに、現場にいない自分にはその実感は伝わってきません。
映像はリアルであり、リアリティを感じるものでありながら、それは「ほんとうのリアル」ではないのです。
航空機がビルに突っ込んだ映像を「美しい」と感じてしまう現象は、そこに「死」が隔離されているから起こり得たことなのかもしれません。
『Peep TV Show』の長谷川が感じたリアリティはまさに「直感」であり、そこに善悪の「判断」が間に合わなかったのです。
この「直感」こそが、ゆきむら。さんが少年Aに与えられた衝撃です。
「圧倒的なリアリティ」が「善悪の判断」よりも前に来てしまうことで、その衝撃を善悪の価値基準とは違う受け止め方で体感し「すげぇ!」と鳥肌が立ってしまう瞬間。
少年Aがしたことは、もちろん悪です。少年Aを崇拝するなんて、もってのほかです。
しかし圧倒的なリアルに抗えなかったゆきむら。さんは、その感性を大切にし、善悪の二分法だけで判断することなく、自分を否定しませんでした。
一方で、人は1人では生きていけません。それなのに、他人の気持ちはわかりません。だから人はお互いの理性を信じて共生します。
ゆきむら。さんは他者との信頼のキズナとなる架け橋が、ある面では堅牢で、ある面では崩壊寸前なことを理解しています。
「殿厨(とのちゅう)」と呼ばれるファンを誰よりも大切に思いつつも、時に置いてけぼりにする覚悟で自分の「リアル」である直感を大切にするゆきむら。さんは、孤独なカリスマです。
私がゆきむら。さんを「好き」と言えないのは、善悪の判断で自然に善を選択する人だから。言い換えればただの凡人です。
ゆきむら。さんを「好き」と言うことは「悪」に足を踏み入れる勇気を伴うと知っているから。
ゆきむら。さんを好きになれるかどうかは、理性のリミッターをはずせるかどうか、という自分自身への問いに答えを出すことです。
そういう煩悶のことを、人は「葛藤」と呼ぶのです。
葛藤JAPAN。
ゆきむら。さんが、きっとめざしている「圧倒的なリアル」とは何なのか。
2月5日、幕張メッセで開催される彼女のワンマンライブで、何が起きるのか。
今、ゆきむら。さんが気になって仕方がありません。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?